2019年最後のフィールドワークは、12月21日(土)に「湧水と織物のまち 八王子~浅川・川口川周辺を巡る〜」でした。
JR中央線西八王子駅から浅川と川口川を越えて加住丘陵の縁に、扇状地の地形の八王子盆地を体感しました。
明治39年測図(今昔マップより)。八王子は1917(大正6)年、多摩地域で最初に市制を施行しました。八王子の町の大きさがよくわかりますね。
昭和41年改測(今昔マップより)。旧市街から離れた桑畑にも住宅が広がり、河川改修により城山川と浅川の合流地点が変わっています。
まず西八王子駅から宗格院に。宗格院がある千人町は、八王子千人同心が住んでいた所として知られています。宗格院には八王子千人同心組頭の松本斗機蔵のお墓があります。
境内には江戸時代に代官頭大久保長安によって築かれた「石見(いわみ)土手」の一部が残っています。浅川の氾濫を防ぐため築かれたといわれています。
南浅川に架かる水無瀬(みなせ)橋から高尾山を望みます。扇状地を流れる河川は伏流水となり涸れることもありますが、水無瀬橋付近には弘法大師にまつわる水涸れ伝説が伝わっています。
横川弁天池公園。見えませんが段丘崖の下から水が湧いています。かつては池の島に弁天様が祀られていて、周辺にはわさび田があったそうです。また1960(昭和35)年に、東京で戦後初めてトウキョウサンショウウオが見つかった所です。
写真奥が南浅川と浅川の合流地点。台風による大雨の影響で護岸や川底が被害を受けたようです。
これも台風の影響でしょうか。浅川の河原で大発見。
メタセコイアの化石のようです。
浅川でメタセコイアの化石林が見られるのは、ここから少し上流の中央自動車道近くの河原ですが、台風で岩が削られて運ばれてきたのでしょう。(写真は以前行った時に撮ったもの)
浅川の河原から鶴巻橋を渡ります。左手に元本郷の浄水場があります。昭和初期に伏流水をくみ上げて散田の配水池(通称、水道山)まで送り、八王子市街に給水されました。 八王子市水道として多摩地域最初の近代水道でした。
鶴巻橋を渡りしばらく歩くと、段丘崖が続いています。
秋川街道沿いの歩道下から湧き水が見られます。左は消防車製造メーカーの日本機械工業。
日本機械工業はカタクラの関連会社です。ここはかつての片倉製糸場、さらに明治初期の頃は八王子で最初の器械製糸場の萩原製糸場でした。創業者の荻原彦七の名は八王子に知られ、浅川には萩原彦七の名前に由来する萩原橋という橋があります。敷地内では製糸場時代の建物が残っていて、消防車が沢山置かれています。
秋川街道の向こうには、かつての蚕室を寮として利用した建物が2棟あります。
日本機械工業の北側は段丘崖が続いていて、会社の敷地内から湧き出した水が民家に続き、流れ出ていきます。清水川と呼ばれているようです。
とても綺麗な水。
川口川。河川改修されていますが、かつて蛇行していた流れが所どころあります。
川口川沿いの微高地にある中田遺跡公園。団地の建設に伴い、主に縄文時代から平安時代の住居跡が見つかりました。昔も今も住むのに相応しい場所なんですね。
子安神社(中野山王)の湧水。石垣の下からこんこんと水が湧き出しています。
湧き出した水は、住宅地を流れていきます。途中には洗い場もありました。
中野山王や中野上町は、製糸や染物に必要な水が豊富でした。また水車も数多く置かれました。かつて桑都と呼ばれ織物で栄えた八王子の面影を感じることができるノコギリ屋根の建物が残っています。少なくなったものの、操業している織物工場や染物工場もあり、八王子織物を支えています。
中央環状から稲荷坂方面、加住丘陵。
川口川(右)と清水川(左)の合流地点。
さらに川口川は浅川と合流します。
名綱神社に。
加住丘陵の南縁にあり、少ないですが水が湧き出していました。
丘陵を上り小宮公園に。この日は天気が今一つでしたが、八王子市街を一望できました。
小宮公園はまさしくスリバチ公園。この一帯はひよどり山と呼ばれていて、水源から大谷川の流れとなります。
大谷弁財天と弁天池。弁天池は江戸時代に造られた溜池といわれています。
トンネルを抜けて浅川方面に下ります。
浅川大橋。
途中、田町の方向に続く暗渠を歩きました。冬至が近く日が暮れるのが早いため、足早に八王子駅に向かいゴール。
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