2019年5月26日日曜日

【報告】新潮講座・町田篇

5月19日(日)の新潮講座・町田篇の報告です。

今回は、小田急線玉川学園前駅から町田駅までのコースです。

明治39年測図。玉川学園の一帯は丘陵で集落がありません。原町田は画面下、町田街道沿いに黒く表示されています。

大正10年測図昭和4年鉄補。1927(昭和2)年に小田急線が開通、鶴川駅から新原田町駅(1976年・昭和51年に町田駅に改称)まで駅がなく、玉川学園前駅が開業したのは2年後の1929(昭和4)年です。

昭和29年修正。小原國芳により創設された玉川学園は、この多摩丘陵の地を分譲した資金により学園を建設しました。丘陵の地形が残されているのが特徴です。また明治から大正にかけては一面の桑畑だった相模原台地が区画整理された様子がわかります。戦前に耕地整理が始まりました。

昭和41年改測。1965(昭和40)年、恩田川の谷に本町田住宅ができました。

1961年空中写真。多摩丘陵と相模原台地の地形の違いがよくわかります。

玉川学園の初期分譲地からスタートです。同じ標高を結んだ鉢巻道路と称される道路があります。あたかも鉢巻のようになっているからでしょうね。

鉢巻道路からの眺望。

もうひとつの鉢巻道路から。その高低差と眺望に思わず感嘆。

丘からいったん谷に下ります。ここは細長い谷戸となっていて、谷間はかつて田んぼが広がっていました。

また丘を上ると見事なスリバチビュー。恩田川の谷と相模原台地の遠景です。

恩田川は鶴見川の支流です。白と黒に塗りなおされた本町田住宅が印象的ですね。手前の排水口は恩田川の旧流路。

鶴川街道に東京都の上流端の標識があります。鎌倉街道からほど近いこの周辺が、かつての町田村です。1582(天正10)年に開拓されて原町田村ができたことにより、町田村は本町田村と称するようになりました。

菅原神社。町田天満宮、南大谷天神社とともに町田三天神のひとつです。参道が緩く下っているのが興味深いです。その向こうには1933(昭和8)年に造られた長い石階段が続きます。

一帯は井出の沢と呼ばれます。境内には弁天社があり、水の神である弁財天を祀っています。左側が湧水地のようになっていて御神水という石碑もありますが、弁天社は2014(平成26)年に今井地区から遷座されたとのこと。

菅原神社は、井出の沢古戦場跡、井出沢城(柵)跡に建っています。神社の横を通っている道が中世の鎌倉街道上道です。多摩丘陵と相模原台地の間にある当地は、水が豊富に湧き出たため、絶好の場所だったのでしょう。

コンビニで休憩。裏手は相模原台地に切れ込んでいる谷戸です。

芹ヶ谷公園に着きました。ここも相模原台地に細長く切れ込んでいる谷戸。ここからの水の流れが芹ヶ谷川となり恩田川に合流します。

湧水ポイントその1、公園北側の谷頭、小田急線の崖下から湧き出しています。雨が少ない日が続いているため量は少ないですが、湧き出しているのがわかりました。

去年12月の写真。地面から砂を巻き上げるように湧き出していました。

水は湿性地に流れ込みます。

西側の湧水ポイント、やはり量は少なめ。

去年12月の写真。谷に勢いよく流れていきます。

谷戸から相模原台地に。鎌倉街道(右側)と絹の道(左側)の分岐点です。原町田村は、江戸時代には市が開かれるようになり、また絹の道の中間に位置するため生糸の中継地として発展しました。

1884(明治17)年創業の柿島屋は、もともと運送用の馬の仲買商人でしたが、その後馬肉料理を提供したところ評判となり馬肉専門店となりました。

絹の道の碑がある広場で解散。

次回の新潮講座は、6月16日(日)に八王子に行きます。

2019年5月18日土曜日

【報告】高尾を歩く~関東山地の入り口の町に~

5月11日(土)に開催した「高尾を歩く~関東山地の入り口の町に~」の報告です。


台地・丘陵・山地の地形を巡ったフィールドワークになりました。


大正10年測図。高尾駅は1901(明治34)年の開業時は浅川駅という駅名でした。高尾山のケーブルカー(高尾登山電鉄)は、1927(昭和2)年の開業です。


昭和41年改測。浅川駅は1961(昭和36)年に高尾駅に改称となりました。桑畑に工業団地、山あいに住宅団地ができつつある様子がわかります。


昭和50年ニ改。京王高尾線が高尾山口まで開業したのは1967(昭和42)年です。霊園ができ、さらなる住宅開発が進んでいます。


スタートは京王高尾線の狭間駅。駅南エリアは狭間工業地区として1966(昭和41)年に分譲開始、20社近い会社が進出しています。

狭間公園。狭間はもともと初沢山の麓にある名称でしたが、その後周辺も含めた町名になりました。この辺りは台地ですね。


高楽寺。しだれ桜で知られています。本堂裏には江戸時代の天明の大飢饉の時に掘られた横穴石仏群があります。かつては胎内めぐりができましたが東日本大震災以降、崩落の恐れがあるため現在は外からの見学のみできます。

坂を上ります。

丘陵の風景に。昔の狭間の集落が一望できます。この地形が地名の由来だと思われる眺めです。

谷戸地形。谷頭からの清らかな流れが暗渠になっています。写真奥に高尾やすらぎ霊園があります。急斜面にお墓があるのでラックカーという乗り物を利用できます。

ラックカー。下見の時の写真です。

谷頭に到着し、どんぐり階段を見上げる一行。これが今日の階段の始まりでした。

狭間の谷戸がよく見えます。それにしてもすごい階段!

初音坂を下ると関東山地でしょうか、風景が一変しました。

コンクリートの階段は草に埋もれていましたが、なんとか下りることができました。左の階段をさくら階段といいます。

高乗寺。多摩八大寺のひとつとして由緒ある寺院です。奥にある高尾霊園には寺山修司、忌野清志郎のお墓があります。

皆さんが見ているのは、戦時中に掘られた浅川地下壕の坑口跡です。浅川地下壕は武蔵野市にあった中島飛行機武蔵工場の疎開工場として3ヶ所掘られました。戦争遺跡として見学会も開催されています。

浅川金刀比羅宮に向かうために、三和団地の住宅地を歩きます。

浅川金刀比羅宮参道から三和団地の眺め。この地下にも浅川地下壕があります。

高尾天神社の参道。案内板のように見所がたくさんあります。今回は高尾天神社と菅原道真公銅像に。

皆さんをお迎えしたのは高尾天神社までの階段。ちょっときつかったですね。

でも菅原道真公の銅像にお目にかかることができました。
「高尾駅近くのみころも公園(狭間町)の西側にあり、台座を含めた高さ14.5m、日本最大級の菅原道真公像です。大正天皇陵御治定記念事業として建てられ、昭和12年(1937年)に完成しました。制作者は、渡辺長男(おさお)氏。国の重要文化財、江戸日本橋のブロンズ像装飾「獅子」・「麒麟」などで有名な明治を代表する彫塑家です。」
《八王子公式ホームページより》

みころも霊堂。産業災害により殉職された方々の慰霊塔です。労働者健康安全機構(旧労働福祉事業団)により、1972(昭和47)年に建立されました。


ここには初沢城という中世の城がありました。高尾天神社の横から入る道があるので興味ある方は行かれてみてはいかがでしょうか。(下見の時の写真、下見では行きました)

ただ、きつい斜面が最後にやってきますので。(下見の時の写真)


高尾駅で休憩。社寺風の北口駅舎は関東の駅百選に選ばれています。大正天皇の大喪列車の始発駅として新宿御苑に設置された仮設駅舎を移築したものです。

甲州街道を歩きます。両界橋のすぐそばにレンガ橋脚がありました。トンネルの下には綺麗な水が流れています。八王子駅から上野原駅まで開業したのが1901(明治34)年、その頃のものでしょうか。


小淵と呼ばれる南浅川の景観。子供たちが水遊びをしています。写真右側に『大菩薩峠』の著者、中里介山ゆかりの花屋旅館があります。

旧甲州街道、裏高尾町に入るとすぐあるのが、高尾駒木野庭園。小林医院(現在の駒木野病院)の院長自宅で、八王子市に寄贈されたものです。池泉回遊式の本格的な日本庭園として整備されています。心字池、枯山水、盆栽等が見事です。


今回の目的地のひとつ、小仏関跡に到着。甲州街道の要衝として当初は小仏峠にありました。徳川家康によって現在地に移設されたとのことです。


所の建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っています。


中央本線小名路踏切からパチリ。小名路はこのあたりの旧地名です。

観音堂、南浅川。


最後の階段は白山神社。白山宮はさらに奥の階段を上ります。廿里(とどり)城址はこの廿里山にあります。


高尾駅まで南浅川沿いを歩いてゴール。お疲れ様でした。この季節としては暑い日となり、また階段が多いコースとなりました。次回は6月22日(土)に南町田に行きます。