2020年12月27日日曜日

【報告】新潮講座・下高井戸・永福 篇

2020年納めの新潮講座は12月20日に開催、京王線桜上水駅から井の頭線永福町駅までご案内しました。

武蔵野台地の淀橋台西端から、公園となった玉川上水と神田川沿いの約7キロの行程でした。

最初に訪れたのは宗源寺。不動堂は、かつて本覚寺にあったものを移したものです。本覚寺は小高い台地の上にあったため、高井堂と呼ばれ高井戸の地名の起源ともいわれます。

玉川上水第二公園。玉川上水は台地の際を流れていました。甲州街道には下高井戸宿があったため避けざるを得なかったとのことです。

玉川上水分水の下高井戸村分水が流れる細く浅い谷。下高井戸村の水田は神田川に堰を作ったあげ堀により水が供給されていましたが、向陽中学校までの細い谷の水田には神田川の水をひくことができないため、玉川上水から分水していました。

今は暗渠。

神田川に。

神田川右岸の小高い地に鎮座する下高井戸八幡神社。社伝では1457(長禄元)年に太田道灌が江戸城を築く際に工事の安全を願い、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したといわれています。

神田川のあげ堀。あげ堀は右岸と左岸に暗渠や道路になっています。

荒玉水道道路。世田谷区喜多見の砧浄水場から杉並区堀之内の妙法寺近くまで一直線の水道道路です。写真手前が玉川上水で向こうが神田川の谷、地形がよくわかります。

玉川上水第三公園。ユニークな遊具がいろいろあります。

首都高速が近くに見えてきました。玉川上水の左岸に龍泉寺があります。かつては玉川上水に龍泉橋が架かり、蛍が舞う景勝地だったそうです。

玉川上水永泉寺緑地。かつて永泉寺がありました。

永福町の寺町は、戦前に都心より移転してきました。隣接する築地本願寺和田堀廟所は、関東大震災後に墓地が陸軍火薬庫跡地に移されたものです。樋口一葉、中村汀女、水谷八重子、古賀政男、海音寺潮五郎、佐藤栄作などの著名人が眠っています。陸軍火薬庫の前は、江戸幕府の煙硝蔵(鉄炮弾薬などの貯蔵庫)でした。

神田川の永福橋を渡り神田川左岸に。神田川は水源の井の頭池から南東方向に流れたのち、永福橋付近で北西に方向を変え中野区弥生町で善福寺川を合流させます。

永福稲荷。西向きの神社です。

永福寺。永福寺村の村名はこの寺名に由来します。

また神田川に。左岸に道路となったあげ堀が続きます。

井ノ頭通りをくぐります。

龍光寺。神田川左岸の小高い地にあります。龍光の名は、井の頭池に住んでいた巨大な竜が神田川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。

境内には八十八ヶ所和泉霊場があります。

和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守で、境内からは縄文時代や古墳時代の遺跡が発掘されています。また徳川家光が鷹狩りの途中に休息した時に植えたとされる松の木がそびえています。

和泉貴船神社。和泉熊野神社の境外末社で和泉の地名の由来となった神社です。境内の池は涸れたことがなく、雨乞いを行う場所として「御手洗の小池」と呼ばれました。湧き水は昭和40年代頃に涸れてしまったそうです。

2020年12月6日日曜日

【報告】12月5日(土)まいまい東京 羽村ツアー

12月5日(土)の、まいまい東京の羽村ツアーの報告です。

羽村駅をスタートして、まいまいず井戸、宗禅寺、堂坂、羽村取水堰、禅林寺というコース。幾段かの河岸段丘を歩きました。

まいまいず井戸は羽村駅の近く。スリバチ状の井戸で、通路がかたつむりの形に似ていることが名前の由来です。鎌倉時代に掘られて町営水道ができた1961(昭和36)年まで使われたとのこと。

五ノ神社。

牛坂通り。江戸時代の中期にまいまいず井戸を改修した時に、多摩川の石などを積んだ牛車が通ったそうです。

真っすぐな道は、玉川上水の第三水門から村山貯水池(多摩湖)まで続く水道道路です。

          
宗禅寺。臨済宗建長寺派の寺院で、もともとは奥多摩街道沿いにありましたが、洪水や玉川上水の工事で現在地に移転しました。写真奥にある薬師堂は多摩川の洪水で流れてきた一本の木で建てられたため、一本木薬師堂ともいわれます。

ちょっとした河岸段丘沿いにあります。

堂坂。このあたりに薬師堂があったそうです。

堂橋からの玉川上水の眺め。左岸(写真右側)は結構な崖が続いています。玉川上水は武蔵野台地の尾根筋に出るまで、巧みに河岸段丘の段丘崖を上っていきます。

第三水門。ここから村山貯水池(多摩湖)まで多摩川の水が送られています。

多摩川に架かる人道橋の羽村堰下橋。

羽村取水堰。1653(承応2)年に羽村から四谷大木戸まで開削されました。約43キロの距離を8ヶ月で完成させたそうです。取水の仕組みは江戸時代から変わらず、洪水の時は堰が壊れないように木でできたものを取り払う投渡という構造になっています。

多摩川の水がどこに行くのかよくわかります。

第一水門。多摩川は、写真向こうに見える丸山という丘陵から第一水門の方向に流れを変えてきます。地形を上手に利用して無理なく取水できるようにしているのがわかります。

第二水門。

玉川上水羽村陣屋跡と水神社。石灯籠は筏師が寄進したそうです。

禅林寺。『大菩薩峠』の作者で知られる中里介山のお墓が本堂裏に続く崖の上にあります。

その崖を上り稲荷神社に。左の坂はお寺坂、坂の途中に馬の水飲み場が残っています。

ゴールの羽村駅近くの旧鎌倉街道沿いにあったピンクの彼岸花。ネリネという種類だそうです。

2020年11月22日日曜日

【報告】11月21日(土) まいまい東京深大寺ツアー

 11月21日(土)の、まいまい東京の深大寺ツアーの報告です。

深大寺境内を一巡りしてから、青渭神社、都立農業高校神代農場の谷、水生植物園、深大寺城址と、2つの谷戸を巡る約5キロのコース。

スタートはここから。まずは山門に向かいます。

山門の横に不動の瀧。多聞院の坂の方にも不動の瀧があります。

深大寺は1865(慶応元)年に大火に見舞われました。山門は大火にあうことなく残り、常香楼には大火の跡があります。

元三大師堂にある石仏。右から二番目は角大師とも呼ばれ、平安の昔に元三大師が鬼の姿となり疫病神を退散したときの姿とのこと。魔除けのおふだで知られています。

元三大師堂の横から崖を上がり開山堂に。深大寺は、国分寺崖線に切れ込んだ細長い谷地形にあるのが特徴です。

右側の崖にあるのが延命観音。左の崖下から水が滔々と湧いています。

深沙大王堂の北側、北の川の水源です。北の川はいったん西方向に流れるため、逆川とも呼ばれます。

深大寺は733(天平5)年に水神の深沙大王を祀り法相宗の寺院として創建されました。開創の由来から、深沙大王は縁結びに御利益があると信仰されています。

紅葉が見頃でした。

多聞院の坂を上ります。向こうに見えるのが、もうひとつの不動の瀧。

青渭神社。延喜式式内社の古社で、この地に青波をたてる大池があったことに由来するため、あおなみさまとも呼ばれます。鳥居の横には江戸名所図会にも載っている見事な大けやきがあります。

三鷹通りの向こうが、北の谷戸と呼ばれる都立農業高校神代農場です。生徒の実習地として利用されていて、ワサビ田、養鱒場、水田、シイタケ栽培場、竹林などがあります。自生のカタクリを始めとして、豊かな自然に恵まれた谷戸です。

神代農場は、新型コロナの影響もあり現在公開されていませんが、中央自動車道の近くから北の谷戸に下りることができます。

谷底に着くと、神代農場からの湧き水の流れが。これがマセ口川となり野川に合流します。

谷を出ると長閑な風景。北の谷戸も深大寺の谷と同様、国分寺崖線に切れ込んだ谷です。

三鷹通りの稲荷坂を上り深大寺東参道に。左側にそば畑があり白い花が咲いていました。

水生植物園。深大寺に続く谷で右側が深大寺城址です。深大寺城は舌状台地にあり、北と東が深大寺の谷、南が国分寺崖線に守られた天然の要塞です。

谷底を歩きます。

深大寺城址に。

深大寺城は、戦国時代に扇谷上杉朝定が小田原の北条氏康との戦いに備えて古い館跡を再興したとされます。空堀、土塁、主郭跡の遺構が残った国指定の史跡です。写真は二の郭跡、日が暮れるが早くなってきました。