2020年11月22日日曜日

【報告】11月21日(土) まいまい東京深大寺ツアー

 11月21日(土)の、まいまい東京の深大寺ツアーの報告です。

深大寺境内を一巡りしてから、青渭神社、都立農業高校神代農場の谷、水生植物園、深大寺城址と、2つの谷戸を巡る約5キロのコース。

スタートはここから。まずは山門に向かいます。

山門の横に不動の瀧。多聞院の坂の方にも不動の瀧があります。

深大寺は1865(慶応元)年に大火に見舞われました。山門は大火にあうことなく残り、常香楼には大火の跡があります。

元三大師堂にある石仏。右から二番目は角大師とも呼ばれ、平安の昔に元三大師が鬼の姿となり疫病神を退散したときの姿とのこと。魔除けのおふだで知られています。

元三大師堂の横から崖を上がり開山堂に。深大寺は、国分寺崖線に切れ込んだ細長い谷地形にあるのが特徴です。

右側の崖にあるのが延命観音。左の崖下から水が滔々と湧いています。

深沙大王堂の北側、北の川の水源です。北の川はいったん西方向に流れるため、逆川とも呼ばれます。

深大寺は733(天平5)年に水神の深沙大王を祀り法相宗の寺院として創建されました。開創の由来から、深沙大王は縁結びに御利益があると信仰されています。

紅葉が見頃でした。

多聞院の坂を上ります。向こうに見えるのが、もうひとつの不動の瀧。

青渭神社。延喜式式内社の古社で、この地に青波をたてる大池があったことに由来するため、あおなみさまとも呼ばれます。鳥居の横には江戸名所図会にも載っている見事な大けやきがあります。

三鷹通りの向こうが、北の谷戸と呼ばれる都立農業高校神代農場です。生徒の実習地として利用されていて、ワサビ田、養鱒場、水田、シイタケ栽培場、竹林などがあります。自生のカタクリを始めとして、豊かな自然に恵まれた谷戸です。

神代農場は、新型コロナの影響もあり現在公開されていませんが、中央自動車道の近くから北の谷戸に下りることができます。

谷底に着くと、神代農場からの湧き水の流れが。これがマセ口川となり野川に合流します。

谷を出ると長閑な風景。北の谷戸も深大寺の谷と同様、国分寺崖線に切れ込んだ谷です。

三鷹通りの稲荷坂を上り深大寺東参道に。左側にそば畑があり白い花が咲いていました。

水生植物園。深大寺に続く谷で右側が深大寺城址です。深大寺城は舌状台地にあり、北と東が深大寺の谷、南が国分寺崖線に守られた天然の要塞です。

谷底を歩きます。

深大寺城址に。

深大寺城は、戦国時代に扇谷上杉朝定が小田原の北条氏康との戦いに備えて古い館跡を再興したとされます。空堀、土塁、主郭跡の遺構が残った国指定の史跡です。写真は二の郭跡、日が暮れるが早くなってきました。

2020年11月21日土曜日

【報告】新潮講座・小金井の仙川篇

毎月第3日曜日の午後は、新潮講座・多摩武蔵野スリバチ地形散歩。11月15日(日)は小金井市の中央線北側をご案内しました。

中央線の武蔵小金井駅から東小金井駅まで8キロ強の行程、仙川の浅い谷と小金井分水、そして玉川上水まで歩きました。

武蔵小金井駅から北に歩いていくと暗渠らしき雰囲気の道。これは小金井分水です。

小金井分水は江戸時代の元禄年間に玉川上水から分水されて、小金井村の生活用水や灌漑用水として利用されました。写真右側が小金井分水跡、道路左側は戦前の陸軍技術研究所の敷地跡です。

読みにくいですが「陸軍」と書いてある境界石杭が残っています。頭の部分だけ出ている状態の杭です。

山王稲穂神社、下小金井新田開発の鎮守として山王社(日枝神社)を勧請したものです。武蔵小金井駅開設の記念碑があります。

鳥居のすぐ南に小金井分水が流れていて、その先は仙川の谷です。

山王窪の築樋。江戸時代の土木遺構で、小金井分水が山王窪と呼ばれる仙川の低地を越えるために築かれた土手です。

仙川が築樋をくぐっています。

窪地から見た築樋。

仙川沿いに続く浅い谷。小金井市を流れる仙川は普段、水の流れを見ることがなく雨が降ると水が流れることから「悪水」と呼ばれました。小金井市には、枝久保・山王窪・小長久保・亀久保という窪地の地形を表す地名が残っています。

仙川は小金井街道付近は暗渠となり、ここでまた開渠になります。

谷を上ると尼寺の三光院があります。

また谷に下りて上久保橋からの仙川。

また坂を上り大尽の坂に。坂の名前は、明治時代に醤油屋や質屋を営む鴨下荘左衛門の屋敷があったことに由来するそうです。

武蔵野台地の尾根筋を流れる玉川上水が近いです。写真は砂川用水、1870(明治3)年に玉川上水から取水していた11ヶ所の分水口が、この砂川用水に付け替えられました。さらに梶野分水から深大寺用水につながっていきます。

いい雰囲気。

浴恩館公園に。浴恩館は、1928(昭和3)年に京都御所で行われた昭和天皇の即位式で神官の更衣所の建物を、財団法人日本青年館が下賜を受けて1930(昭和5)年に開館しました。現在は小金井市の文化財センターとして利用されています。

仙川がすぐ近くを流れています。

玉川上水に。関野橋。

この付近は桜の名所。玉川上水の桜並木は、江戸時代の元文年間に押立村の名主川崎平右衛門を中心に、現在の武蔵野市から小平市にかけての東西6キロに植樹されました。江戸近郊の桜の名所となり、大正時代には国の名勝に指定されました。

玉川上水から見た仙川方向の谷。手前は砂川用水。

砂川用水は梶野分水につながります。梶野分水は1732(享保17)年に許可された玉川上水の分水です。

小金井分水の山王窪の築樋と同じく、築樋があります

写真の奥、仙川が梶野分水をくぐっています。

築樋の東側はこのような雰囲気になっています。

小金井市の仙川は結構蛇行しています。

梶野新田鎮守の市杵島神社。神社の東西南側を蛇行して仙川が流れていて、小高い土地に鎮座しています。

神社東側の仙川方向を見ると、小高い地形になっているのがわかります。向こうに見える松は1869(明治2)年に御門訴事件で捕縛された若者が、無事帰って来たことを記念して植えたものです。

2020年11月1日日曜日

【報告】10月30日(金)朝カル立川教室「国分寺崖線」

10月30日(金)に、朝日カルチャーセンター立川教室の講座「シリーズ武蔵野学・多摩武蔵野スリバチ地形散歩」で、国分寺崖線とハケの地形、湧水などをご案内しました。

国分寺駅から武蔵小金井駅まで、ほぼ国分寺崖線沿いのコースです。

スタートは、国分寺駅南口から至近距離にある殿ヶ谷戸庭園に。大正期に旧満鉄副総裁の江口定條、昭和初期には三菱財閥岩崎家の別荘で、谷戸地形を活かした林泉回遊式庭園です。明治末期から昭和初期にかけて純農村地帯であった国分寺崖線沿いには、30あまりの別荘が建てられました。当時の健康志向と交通の発達によるものといわれます

東京の名湧水57選の湧水を利用して作られた次郎弁天池。

高層マンションを背景に。

紅葉亭から。木々が色づき始めました。

通称、丸山と呼ばれる国分寺崖線の崖上からの眺め。丸山は国分寺崖線と殿ヶ谷戸、長谷戸に囲まれた三角形の形をした台地です。遠くに府中の浅間山が見えています。

この道はよく車で通るのですが、凄い急坂です。

東京経済大学構内にある新次郎池は、創立120年事業で整備されました。今のところ学生以外は入れないようです。新次郎池の名前は元学長の北澤新次郎に由来します。

くらぼね坂から新次郎池をちらっと見ることができました。綺麗になりましたね。ここも東京名湧水57選の湧水。

鞍尾根橋。国分寺市と小金井市の市境です。写真は国分寺市側の野川。

こちらは、小金井市側の野川。

湧水の道という名前の野川旧流路。

貫井神社に。左の駐車場は1923(大正12)年に湧水を利用して作られた貫井プールの跡地です。とても冷たかったらしいです。神社の前に貫井プールの碑があります。

本殿西側と裏側の崖下から水が湧き出しています。ここも東京の名湧水57選の湧水。ハケの地形がよくわかる場所で、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』で描写されています。

滄浪泉園。銀行役員、外交官、政治家であった波多野承五郎の別荘で、犬養毅元首相が命名しました。かつては現在より3倍近い敷地があり、水車が回るほどの湧水の量がありました。宅地開発により敷地は徐々に縮小、昭和40年代にはマンションの建設が計画されましたが、東京都が買収、緑地保全地区に指定されて貴重な自然が残されています。

崖下の数ヶ所から水が湧き出しています。ここも東京の名湧水57選の湧水。

すぐ近くを新小金井街道と連雀通りが通っているとは思えないほど自然豊かな環境。パンフレットに書かれている通り、深山の趣きです。

ゴールの武蔵小金井駅の近く、国分寺崖線はまだまだ続いています。