2018年4月23日月曜日

新潮講座 西武柳沢~吉祥寺篇

4月21日(土)の新潮講座・多摩武蔵野スリバチ地形散歩は、西武新宿線の西武柳沢駅から吉祥寺まで、武蔵野台地の標高50mライン沿いを歩きました。4月としては暑い日になりましたが、武蔵野の美しい新緑の中を気持ち良く歩くことができました。

カシミール3Dで茶色と緑色の境を標高55m、緑とグレーの境を50mに設定しました。武蔵関公園の富士見池は三宝寺池・善福寺池・井の頭池と同様に標高50mラインにあることがわかります。

スタートの西武柳沢駅は、2001年に旧田無市と旧保谷市が合併してできた西東京市にありますが、この周辺は旧保谷市でした。マンホールにその痕跡を見ることができます。

西武柳沢駅の近くにある千駄山住宅という名前のバス停。ここには山がありませんが、『多摩の歴史』(武蔵野郷土史刊行会・有峰書店)では「カヤやススキを六束ずつ馬の背中の両脇につけたものを一駄といい、ここは千駄というほど沢山とれたためと考えられる」と由来が書かれています。

石神井川に半島状に突き出した台地上に鎮座する東伏見稲荷神社。1929年(昭和4)に京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建されました。戦前には中島飛行機の研修所があり、亡くなった人の慰霊碑があります。

弥生橋から石神井川の眺め。川の水は綺麗で親水公園として整備されています。少し下流の護岸の下から水が湧き出しているのを確認できました。フェンスの先は早稲田大学東伏見グラウンド。ホッケー場やサッカー場、その先には馬場、アメフト場、野球場があります。

石神井川右岸の台地に広がる下野谷遺跡。縄文時代中期の環状集落の遺跡として南関東では大規模なもので、平成27年に西側の集落の一部が国の史跡に指定されました。水に恵まれた土地で暮らしやすかったのでしょうね。

武蔵関公園西側の道路は西東京市と練馬区の境界、つまり多摩地域と23区の境界です。旧保谷市は1907年(明治40)に北多摩郡に移管されるまでは埼玉県だったため、かつての都県境になります。

標高50mにある富士見池。かつては豊富な湧き水があり、調整池として整備される前は沼になっていたと考えられています。写真のメタセコイヤの木があるのは芦の島、池の北側には松の島があります。

富士見池の横を流れる石神井川。現在の富士見池は地下水と石神井川からの揚水、早稲田大学グラウンドからの湧水を導水しているとのことです。

武蔵関公園の南、青梅街道に標高58mと表示されていますが、この付近は23区内で標高が一番高い所です。

青梅街道を越えると練馬区から武蔵野市に入ります。境界沿いを流れているのが千川上水。玉川上水の分水で、江戸六上水のひとつです。1696年(元禄9)に開削され、湯島聖堂、寛永寺、小石川御殿、浅草寺などに給水されました。設計は河村瑞賢、工事は仙川村の徳兵衛・太兵衛が請け負いました。現在の水の流れは清流復活事業によるものです。

千川上水の近くにある野菜の直売所。「ブラタモリ・吉祥寺編」で放送された所ですね。新鮮な野菜がたくさん販売されてました。

武蔵野市には戦前、軍需工場が数多く建設されましたが、戦争記憶として案内板が設置されている所があります。写真の武蔵野市陸上競技場はそのひとつです。ここはかつて戦闘機のエンジンを製造していた中島飛行機武蔵製作所の運動場跡です。土盛りされたスタンドには防空壕や高射砲があったそうです。その他、中島飛行機の跡地は武蔵野市役所、住宅団地、武蔵野中央公園になりました。

武蔵野台地には人工ではない自然の窪地がよくあります。明治39年測図で〇に→が入っている場所が窪地サインです。武蔵野市にもいくつかの窪地があり、かつては大雨が降ると何日も水が溜まって大変だったそうです。

市立中央図書館の近くにある窪地。

この付近は江戸時代の新田開発の痕跡が色濃く残っています。明暦の大火後に現在の水道橋にあった吉祥寺の門前の人々などに、五日市街道に沿って間口20間・奥行600間ほどのの敷地が与えられました。1間は1.8mなので奥行は1キロに及びます。広い土地ですが、当時は幕府の萱場で人も住んでいないため、開墾には相当の苦労があったそうです。区画整理された痕跡は現在でも短冊型の区画として吉祥寺の町を印象づけています。写真は「ブラタモリ・吉祥寺編」でタモリさんと近江アナが歩いた扶桑通りの長く真っすぐな道です。

成蹊大学のけやき並木。成蹊学園が1924年(大正13)に池袋から吉祥寺に移転した際に植樹されたものです。成蹊学園が吉祥寺に広大なキャンパスがあるのは、三菱財閥4代目の岩崎小弥太の尽力によるものです。小弥太は現在の成蹊高・中がある場所に岩崎農園や清風荘という別荘を所有していました。そして隣接した土地8万坪を購入して学園に寄贈したとのことです。

吉祥寺の繁華街に近くなってきました。ここは四軒寺という交差点です。

吉祥寺に吉祥寺という寺院がないように、四軒寺という名前の寺院はありません。吉祥寺村が開村されたときに移転または創建された四軒の寺院(安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺)のことを言います。写真の安養寺には江戸時代の梵鐘と庚申塔が残されています。

明治時代の迅速測図でログを表示するとこんな感じです。吉祥寺の集落が五日市街道沿いに集まっていて、成蹊学園や住宅地が畑の中にあることがわかります。

次回の新潮講座は、標高50mラインを久我山から吉祥寺に歩きます。神田川と玉川上水、かいぼりの終わった井の頭池などを廻りますので是非お越しください!
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01raynzb962c.html

2018年4月15日日曜日

【フィールドワークのお知らせ】2018年5月12日(土) 多摩丘陵の公園と絹の道

5月12日(土)のフィールドワークのお知らせです。

多摩ニュータウンの中に里山風景が浮かぶ公園(小山内裏公園・長池公園)と絹の道・鮎の道を中心に歩きます。
ニュータウンの街並みと雑木林・谷戸が続く里山公園の見事な対比、古道、城址、尾根緑道(戦車道路)、丹沢や奥多摩の山々の眺望などなど、初夏の緑とともに癒されること間違いなしです!

【開催概要】
日程:2018年5月12日(土)
集合時間:10時30分
集合場所:京王高尾線京王片倉駅改札口出たあたり
解散場所時間:京王相模原線京王堀之内駅に17時30分頃
参加費:200円(資料印刷代+保険代)

参加ご希望の方は、下記Facebookのイベントページにて参加ボタンを押すか
または、suribachitama@gmail.com までご連絡ください。
↓Facebookイベントページ↓
https://www.facebook.com/events/191345528050164/

【予定ルート】
京王片倉駅→片倉城跡公園→大塚山公園(道了堂跡)→絹の道→絹の道資料館(昼食休憩)→小泉家屋敷→小山内裏公園→鮎の道→大田切池→尾根緑道(戦車道路)→長池公園→長池見附橋(旧四谷見附橋)→せせらぎ緑道→京王堀之内駅


【諸連絡】
・昼食休憩は絹の道資料館でとります。売店がないのでお弁当を持参するか途中のコンビニで購入して下さい。ゴミは各自お持ち帰り下さい。
・コンビニは絹の道に向かう国道16号沿いにあるのが最後です。
・休憩は公園の管理棟で。きれいなトイレや自動販売機があります。アイスの販売ありませんのであしからず…。
・公園内は整備されていますが絹の道は未舗装のため、歩きやすい靴や服装でお越し下さい。
・小雨決行、荒天の場合は別途お知らせします。


いつもの通り15キロ程度歩きますが、お時間合えば是非お越しください。お待ちしています!


2018年4月1日日曜日

仙川と石神井川の源流部を歩く

3月31日(土)に開催した「仙川と石神井川の源流部を歩く」の報告です。
標高50mラインの湧水地とともに、標高70mラインも湧水地があることで知られています。その中でも仙川と石神井川の源流部に着目して歩いてきました。


コースはJR中央線国分寺駅をスタート、中央線の北側を歩いて武蔵小金井駅がゴール。


明治期の地図は一面の畑ですが、石神井川の谷には水田マークがありますね。


国分寺市では1955年に日本初のロケット水平発射実験が行われました。実験場所は現在の早稲田実業学校がある所、戦時中は中央工業南部工場でした。JR国分寺駅北口から「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰碑がある早稲田実業学校に続く歩道上に、12種類のマンホールが設置されています。


『東京「スリバチ」地形散歩 多摩武蔵野編』にも出ている長谷戸のスリバチビュー。国分寺崖線から切れ込んでいる谷です。


しばらく歩いていくと国分寺市・小金井市・小平市の境界、境界マニア必見のトリプルジャンクション!

目印になるものがなかなかありませんが。。

目的地のひとつ、仙川の源流部にある東京サレジオ学園さんです。

東京サレジオ学園さんに事前にお願いして敷地内をご案内頂きました。同学園は1946年に設立された歴史ある児童養護施設で敷地内に約100人が生活しています。多摩陸軍技術研究所の跡地であるこの地には1947年に移転して来ました。敷地内の建物や設計は「吉田五十八賞」等の賞を受賞している素敵なものです。

仙川の源流部、草原と呼ばれているところ。土地は一部改変されていますが窪んでいる様子がわかります。大雨が降ると水が溜まるそうです。東京サレジオ学園さんには大変お世話になりました。

北上し砂川用水を越えて玉川上水に。玉川上水は武蔵野台地の尾根筋を開削し1654年に完成しました。分水嶺を境に仙川は多摩川水系、石神井川は荒川水系となります。

玉川上水からは30を超える分水が引かれて乏水の武蔵野台地を潤しました。これは田無用水にある石橋供養塔。

田無用水。この付近は回田新田として江戸時代の享保年間に開発されました。現在の東村山市廻田町を親村とする新田です。

またここには戦時中、陸軍経理学校がありました。陸軍経理学校からの排水が経理排水として石神井川に流されました。解説をして頂いたスペシャル参加の本田創さん。石神井川源流部の動脈と静脈のような水のネットワークについては、本田創さん著「東京暗渠学」を是非お読みください!http://www.yosensha.co.jp/book/b308372.html

小平市鈴木遺跡資料館に寄りました。農林中央金庫グラウンドから発掘された地層が展示されています。熱心な解説に一同感激!

鈴木遺跡は1974年に鈴木小学校建設時に発見されました。石神井川の谷頭部にあたり3万年から1万年前までの旧石器時代の大規模な遺跡です。当時は湧水が豊富で人々が住むには暮らしやすい場所だったとのことです。写真右の壁は新小金井街道。

鈴木小学校には古代の泉と名付けられた可愛い湧水の池があります。

石神井川源流部に作られた武蔵野団地という住宅地を抜けると、また経理排水があります。ここは何とも言えない趣きがあります。

小金井カントリー倶楽部の手前には駐車禁止の文字。これは下見の時の写真で、当日は駐車していた車が。。

また玉川上水の南側に戻ると小金井分水があります。明治初期に玉川上水の通船の関係から取水口が砂川用水からとなりました。この写真も下見の時のものです。

小金井分水は小金井村を網の目のように流れて水をもたらしました。流末は野川に流れ込んでいたり、梶野新田分水から深大寺用水までつながってもいました。現在では住宅街を縫うように残っています。

小金井分水は仙川の谷を越えないと小金井村に水を引くことができませんでした。そこで築かれたのが、山王窪の築樋と呼ばれる土手。全長約102m、高さ約5.4mあったと記録されています。ここも『東京「スリバチ」地形散歩 多摩武蔵野編』に載っています。


ゴールが近くなってきました。武蔵小金井駅北口のここも小金井分水。今回のフィールドワークは仙川と石神井川の源流部を歩くというタイトルでしたが、川ばかりでなく江戸時代の用水も含めて、武蔵野台地と水の関係を触れるものとなりました。

次回は5月12日(土)に、八王子の絹の道と鮎の道を歩きに行きます。フェィスブック、ブログで告知します。お待ちしています!