2018年5月28日月曜日

新潮講座 久我山~吉祥寺篇

5月19日(土)の新潮講座・多摩武蔵野スリバチ地形散歩は、武蔵野台地の標高50mライン歩きの2回目として、京王井の頭線の久我山駅から吉祥寺までのコースでした。その時の様子をまとめましたのでご覧下さい。

いつものようにログです。久我山駅から井の頭公園まで約7kmでした。緑とグレーの境が標高50m、ベージュと緑の境が標高55mです。

明治期の地図を見ると集落は現在の人見街道や連雀通り、または五日市街道沿いにあることがわかります。短冊状の地割は江戸時代に新田開発された地域で、現在の区画は当時にその骨格が作られたことがわかります。

スタートの井の頭線久我山駅を西方向に行くと神田川沿いに暗渠がずっと続きます。

昭和20年の航空写真を見ると、神田川沿いに田んぼが続いています。

神田川の谷を見下ろすように小高い台地の上に久我山村の鎮守、久我山稲荷神社があります。

神田川の右岸(写真左)は三鷹市、左岸(写真右)は杉並区。三鷹市側の旧流路を少し歩くことができます。

杉並区の暗渠ではお馴染みの、金太郎の車止めがありました。状態はいいですね。

三鷹市と杉並区の境界です。

野性味のある階段がありました。

神田川から玉川上水に向かいます。これは旧牟礼橋。どんどん橋とも言います。昔の玉川上水は水量が豊富で、音をたてて流れることに由来すると言われます。橋の下部はレンガ造りです。後方は工事が進んでいる東八道路。

玉川上水を溯った所に架かっている東橋からの眺め。結構深いです。玉川上水は右岸(写真左)の小高くなった丘の北側に沿って流れています。

この風景には足が止まりますね。

牟礼にあるこの小高い丘は牟礼残丘と呼ばれ、かつて多摩川がこのあたりを流れていた時代に削り残されたものです。高番山とも呼ばれたのどかな風景が気持ちいいです。

昭和20年の航空写真。牟礼残丘は流線形の形が特徴的です。丘の北縁を北西から南東にかけて流れているのが玉川上水、丘の南側は牟礼田んぼです。玉川上水はこの付近で羽村堰から28~30キロの地点です。地形の勾配を巧みに利用して開削された玉川上水、江戸時代の土木技術に感嘆します。

牟礼残丘の標高約60mの高台にある牟礼神明社。小田原北条氏の家臣である北条種継(牟礼の高橋氏の祖先)が1537年(天文6)、扇谷上杉家の家臣が拠る難波田弾正の深大寺城に対峙する砦として築かれました。当時はさぞかし武蔵野台地の原野を一望できたでしょうね。

玉川上水に架かる宮下橋。三鷹台駅前通りを下っていくと神田川が流れています。人工の用水は高い所を流れ、自然の河川は低い所を流れていることを実感できます。

道路を下って脇に入っていくと神田川支流の暗渠があります。

このあたりは神田川支流の暗渠が複雑になっています。

また玉川上水に戻ります。ここは新橋の近くです。

玉川上水から井の頭公園西園に入ります。未舗装の道がありますが牟礼用水(牟礼分水)の跡です。

牟礼用水の取水口。牟礼用水は三鷹台団地の辺りにかつてあった牟礼田んぼ(先ほどの航空写真)に水を供給する目的で、1745年(延亨2)に玉川上水から分水されました。

井の頭弁財天に向かいます。参道入口にある標石は「神田御上水源井頭辨財天」と彫られています。井の頭弁財天は神田上水の水神であり、また弁財天は音楽や芸能の守護神ということもあり、江戸町人に信仰されました。また景勝地として江戸からの行楽として人気がありました。

現在では、井の頭公園や井の頭弁財天へ行くには、中央線の吉祥寺駅南口から行きますが、江戸時代から大正時代にかけては弁財天の参道から行きました。参道は大いに賑わっていたそうです。


現在の参道の周囲は閑静な住宅街。

弁財天の石段の上に石灯籠がいくつかあります。奉納した江戸商人などの名前が彫られています。

井の頭弁財天。縁起では関東源氏の祖である源経基の創建で、源頼朝や新田義貞が戦勝祈願をしたとされています。最近は外国人の姿も多く見かけます。

標高50mラインを代表するスリバチ状の地形の井の頭池。かいぼりが終わって池の水はきれいでした。かいぼりは外来種の駆除や水質浄化のために平成25年度から2年おきに実施しています。

平成29年度のかいぼりの様子です。水が抜かれて池底が見えていますが、池の真ん中に水の流れがあります。これは湧水の流れです。井の頭池の湧水は涸れてしまったと言われていましたが、かいぼりにより湧水が健在であることがわかりました。

かいぼり期間中に開催される池底ツアーなどのイベントで池底に降りることができます。池底の武蔵野礫層から水が湧いているのを間近に見ることができますよ。

次回の新潮講座は6月16日(土)に、千歳烏山から久我山にかけての標高50mラインを歩きます。

2018年5月20日日曜日

多摩丘陵の公園と絹の道

5月12日(土)に開催した「多摩丘陵の公園と絹の道」の報告です。少し長くなりますが、当日の様子をまとめました。


全行程約15キロ。多摩丘陵の尾根や谷を歩きました。雨が降らなくて良かったです。


明治時代の地図だと丘陵を歩いたということが実感できますね。


京王高尾線京王片倉駅をスタート、東京環状を下っていくと湯殿川にかかる住吉橋を渡ります。湯殿川は浅川の支流でかつては川幅も狭く蛇行していましたが、現在はこのように改修されています。


最初の目的地、片倉城跡公園。ここは小比企丘陵の東端にあり室町時代の築城とされる片倉城跡があることで知られています。豊かな自然に恵まれ、カタクリや菖蒲などの花々や東京名湧水57選にも選ばれた湧水を楽しめます。また彫刻家の北村西望や西望章を受章した彫刻が展示されています。
菖蒲田を歩く一行。のどかな風景ですね。


奥の沢からの湧水。


谷戸を上ると片倉城跡です。改変されていますが空堀や土塁の跡があります。


片倉城跡公園を南下して車石谷戸と呼ばれる谷から鑓水峠を目指します。東急片倉台団地を経由するルートです。


東急片倉台団地は隣接する西武北野台団地とともに、昭和40年代に多摩丘陵を開発し分譲された大規模住宅です。


八王子バイパスの向うに見える林が大塚山公園、鑓水峠


絹の道を歩くには、鑓水峠へ約150段の階段を上らなければなりませんが、上りきると八王子の中心街や奥多摩などの山々の絶景が望めます。


絹の道碑。幕末から明治の中頃まで八王子に集積された生糸は浜街道、または浜道と呼ばれた道を横浜に向けて運ばれました。現在の絹の道はそのルートの一つです。この碑は1957年(昭和32年)に建てられたもので、以降浜街道は日本のシルクロードとして有名になりました。ここから御殿橋までの約1.5kmが「絹の道」として八王子市の史跡に指定されています。


大塚山公園は道了堂というお寺の境内の跡地に1990年(平成2年)に開設された公園です。道了堂は1873年(明治6年)に創建、東京の花川戸から移転してきたものです。かつては大変な賑わいがあったらしいですが、鑓水商人の没落とともに衰え、1963年(昭和38年)に廃寺となりました。本堂があった場所には礎石が残されています。

本堂跡の後ろに二等三角点の石(標高213.4m)があります。大塚山は江戸時代から「十二州見晴らし」と呼ばれるほど眺望の良い場所と知られていたそうです。十二州とは、武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房・伊豆・駿河・甲斐・信濃と考えられています。
大塚山公園から絹の道を歩きます。かつて横浜港に向けて沢山の生糸が運ばれた道で、未舗装の部分は文化庁選定の「歴史の道百選」に選ばれています。絹の道は尾根を通っていて尾根の西側は巌耕地谷戸、東側は嫁入谷戸と呼ばれる谷戸です。鑓水は九十九谷(つくもだに)と呼ばれるほど谷戸が多い地域です。

絹の道を約1km歩くと鑓水三差路に出ます。ここには石塔がいくつかあります。真ん中の大きいのは秋葉大権現の石塔、その左は1798年(寛政10年)建立の庚申塔です。

珍しいのは一番右側の小さい石碑。「御大典記念此方鑓水停車場」と刻まれています。実は大正から昭和にかけて南津電気鉄道という鉄道計画がありました。これは現在の京王線聖蹟桜ヶ丘駅付近から鑓水経由で神奈川県の津久井郡に至る計画でした。南多摩郡と津久井郡を結ぶため、南津電気鉄道と名付けられましたが実現しませんでした。鑓水停車場は御殿橋のそばに予定されました。


絹の道資料館は「鑓水の石垣大尽」と呼ばれた生糸豪商だった八木下要右衛門の屋敷跡に作られました。その石垣は相模川から馬に乗せて運んできたとのことで資料館前の道沿いに残っています。資料館では絹の道、鑓水商人、また養蚕などについて展示されていますので是非見学してみて下さい。


絹の道資料館の近くには鑓水商人に関係のある諏訪神社と永泉寺があります。写真は子の神(ねのがみ)谷戸にある諏訪神社です。鑓水商人から寄進された石灯籠や、本殿の覆屋の中に3つの神殿(諏訪神社・子の神・八幡神社)が合祀され並んでいるのを見ることができます。


絹の道資料館から少し下った所に一本の大きな榎の木がありますが、八王子から一里の地点にある一里塚の跡です。


谷戸を下っていくと大栗川に出ます。ここにかかっている御殿橋までが史跡に指定された区間です。御殿橋のたもとには1865年(慶応元年)建立の道標が立っています。鑓水の道標として知られていて、正面には「此方八王子道」と刻まれています。


この付近がかつての鑓水村の中心地で、南津電気鉄道の鑓水停車場もこの付近にできる予定でした。


絹の道は続いていきます。柚木街道を渡った伊丹木(板木)谷戸にある小泉家屋敷は、東京都指定文化財の入母屋造りの茅葺きの農家建築です。


鑓水地区のニュータウンに入りました。景色ががらりと変わりますが、穂成田(ぼなりだ)歩道橋にも絹の道の表示がありました。


八王子市と町田市の境界にやってきました。境界サインがいくつかありますね。


ここから今回のもう一つのテーマである多摩丘陵の公園を歩きます。ニュータウンの中を緑の回廊のように公園が続いています。最初は小山内裏公園、「おやまだいり」と読みます。名前の由来は、かつてこの地域に京都から能楽師が移り住んだことに由来するとの説があります。写真の左の林のある丘は浜見台と呼ばれます。絹の道から浜を見る~横浜を見る場所、ということで名付けられたとのことです。現在は入れないようです。


小山内裏公園の中には鮎の道が残されています。津久井往還と言われ、津久井で取れた鮎を鶴川、登戸、三軒茶屋を通って江戸まで売りに行くための道でした。絹の道同様、かつての面影が残っています。


大田切池に着きました。多摩川支流の大田川の源流で大田川が切れるところという意味があります。かつて川岸にあった杉が枯木立となったため、その印象的な景観から町田の上高地と呼ばれることもあるとか。


小山内裏公園のほとんどが雑木林で、谷戸がサンクチュアリとして指定されているため、多摩丘陵の貴重な自然が丸ごと残されています。尾根筋に出ると尾根緑道があります。ここは戦争末期に相模原陸軍造兵廠で製造された戦車の性能テストや操縦訓練用に造られた道で、戦車道路とも呼ばれています。現在は清々しい散歩道であるとともに、多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺になります。


東展望広場から相模原方向の眺望です。先の浜見台からもこのような景色が見えたんでしょうね。


次の公園は長池公園です。南多摩尾根幹線道路側から入って、しばらくだらだらとした坂道を上ります。


長池公園は多摩川水系の大栗川支流の旧別所川の源流部に位置していて、里山公園構想により整備、保全された公園です。江戸時代からある溜池の長池には浄瑠璃姫の碑があります。


こちらは築池の隣の谷戸に広がる水田。里山風景が残されています。


姿池にかかる長池見附橋は、1913年(大正2年)に四谷見附にかけられた旧四谷見附橋が架け替えとなった際に、1993年(平成5年)に移築復元されました。左手の橋のたもとにある教会が旧イグナチオ教会と感じがよく似ています。

京王相模原線京王堀之内駅まで、別所のニュータウンの中を旧別所川を活用したせせらぎ緑道が続いています。周辺は蓮生寺公園などの公園がニュータウンの町並みとともに共生しています。
多摩丘陵には公園が数多くあり里山風景も残されています。今後もフィールドワークで企画していきたいと思いますので是非ご参加下さい。