2018年2月25日日曜日

新潮講座百草園篇

2月17日(土)の新潮講座百草園篇の報告です。
1月の稲城①篇に続く多摩川右岸・多摩丘陵シリーズの第2弾は、梅まつり開催中の京王百草園周辺。『東京「スリバチ」地形散歩 多摩武蔵野編』では掲載しなかったエリアですが、沖積地と丘陵に古くから人が住む歴史がある町です。

今回のコースは、京王線百草園駅スタート→一宮用水→京王百草園→百草八幡宮→新堂谷戸・百草谷戸→小野神社→京王線聖蹟桜ヶ丘駅。

明治期の地図を見ると沖積地は一面の水田、自然堤防の微高地に集落があります。多摩丘陵は開発前の地形がよくわかります。

まずは京王線百草園駅から北方向に。日野市落川と百草の町域が複雑に入り組んでいる地域です。日野市は河川・用水・湧水が市の約15%を占めていて「全国水の郷」に選ばれていますが、確かに少し歩いただけで用水の流れがあちこちに見ることができます。写真は河内堀と呼ばれる用水。

1961年(昭和36)の航空写真を見ると集落と水田は明治期の地図とほぼ同じです。

一宮用水。程久保川から取水され落川用水と合流して多摩市の水田まで、現在は住宅地の中を流れていきます。明治期の地図ではこの付近に水車マークがあります。

一宮用水と落川用水の合流地点付近。近くには落川遺跡という古墳時代から平安時代にかけての住居跡があり、この周辺は古くから人が住んでいた場所です。

元名主屋敷の前にある落川村制札(高札)場跡。一ノ宮渡船場に通じる旧道沿いにあります。

京王線の踏切を渡り京王百草園に向かいます。写真の右が現川崎街道で左が旧道。八王子道とも呼ばれました。

しばらく歩くと東光寺跡の地蔵堂と馬頭観音があります。馬頭観音の台座に「松連寺道」と刻銘され道標を兼ねていました。これからいよいよ多摩丘陵の坂道を上ります。

坂の途中にある看板。「あとひといき」というか、これからが激坂の本番。

手すりがあるほどの急坂。あとひといき!

京王百草園。江戸時代の享保年間に小田原城主大久保忠増の室であった寿昌院が、徳川家康の長男岡崎三郎信康を追悼するために中興した黄檗宗の松連寺があったところで、風光明媚な名園として知られました。1886年(明治19)に百草村出身の生糸貿易商の青木角蔵によって整備され百草園として公開され、1957年(昭和32)に京王帝都電鉄の所有となりました。

寿昌院お手植えの「寿昌梅」、根元では福寿草が満開でした。

京王百草園は新堂谷戸の谷頭付近に位置します。京王百草園には、鎌倉幕府の御祈祷の霊場であった「真慈悲寺」の主要伽藍があったと考えられています。真慈悲寺は鎌倉幕府の公式の歴史書「吾妻鑑」の中にも書かれていて、源頼朝が鎌倉で後白河法皇の四十九日の法要を行った際、浅草寺と並んで僧三人を送ったとされた武蔵国有数の大寺院で、百草の丘陵一帯が寺域だったと推定されています。この高台から眼下の丘陵を眺めていると壮大なロマンを感じます。

京王百草園の隣りにある百草八幡宮。松連寺の別当として境内に建立され、1062年(康平5)に源頼義・義家が奥州征討の際に戦勝を祈願し勧請したと伝えられます。奉安殿には、真慈悲寺の本尊銅造阿弥陀如来坐像(国重文)が安置されています。

京王百草園から東に続く道も松連寺道と呼ばれる尾根道です。写真左が新堂谷戸、右が百草谷戸です。

六地蔵、庚申塔、道祖神があります。道祖神の台座には「百草村」と刻銘されています。

草谷戸には日野市で唯一の牧場「もぐさファーム」があります。子牛がかわいい顔をのぞかせています。直営店「アルティジャーノ・ジェラテリア」が川崎街道沿いにあり、イタリアンジェラートを販売しています。美味しいですよ!
アルティジャーノ・ジェラテリア

百草谷戸の谷を流れる百草谷川。

旧道を降りると馬頭観音があります。台座には「八景山松連寺道」と刻銘され道標を兼ねていました。

多摩市に入って、武蔵一之宮小野神社に。式内社「武蔵国多磨郡 小野神社」の論社の1つで、もうひとつの論社に府中市の小野神社があります。

京王線聖蹟桜ヶ丘駅の北側の見どころポイント。府中市四谷との間にあった一ノ宮渡しの碑、多摩川の水位を測る目安にするために明治25年に設置された神奈川県水量標識、この付近に小野神社の一の鳥居があったと伝えられる御神木。これらが1ヶ所に集められています。

かわいいマンホールがありました。

次回の新潮講座は3月17日(土)に稲城に行きます。沖積低地と多摩丘陵の地形の妙が楽しいですよ。お待ちしています!
新潮講座

2018年2月11日日曜日

辿れ!標高50mライン三大オアシス!

2月3日(土)に開催した「辿れ!標高50mライン三大オアシス!」の報告です。去年出版した『東京「スリバチ」地形散歩 多摩武蔵野編』でも紹介していますが、武蔵野台地の標高50mラインには数多くの湧水地があります。今回はその中でも武蔵野三大湧水池として有名な三宝寺池・善福寺池・井の頭池を、標高50m前後を辿りながら歩きました。
標高50mラインをカシミール3Dのスーパー地形だけで表示。ログを見ると50m付近を歩いたのがわかりますね。
地理院地図を重ねるとこんな感じに。標高50mラインは緑と茶色の境です。
明治以降のこの地域の町の変化を見てみましょう。
明治期の迅速測図です。中央線や西武新宿線・池袋線は開業していません。集落は青梅街道、五日市街道、連雀通り沿いにあります。
明治39年測図です。中央線前身の甲武鉄道の開業は明治22年、吉祥寺駅は明治32年開業です。江戸時代の新田開発による短冊状の地割がよくわかります。
大正6年測図です。右上を通っている西武池袋線前身の武蔵野鉄道の開業は大正4年、石神井公園駅も同時に石神井駅として開業しています。町の様子に大きな変化はありません。
昭和2年修正です。西武新宿線前身の村山線の開業は昭和2年、上井草駅も同時に開業です。関東大震災以降は宅地化が進み、上井草駅南側と善福寺池周辺では大規模な土地区画整理事業が大正期から行われています。
昭和20年部修です。武蔵野台地の平坦地には戦前から軍需関連の施設や工場ができました。中央線沿いに宅地化の波が押し寄せて来ていますが、まだまだ畑地等の空地が多いですね。
昭和41年改測です。多摩武蔵野は都心のベッドタウンとして大規模な団地があちこちに出現しました。急激に宅地化が進んだことがわかります。

今回のフィールドワークは西武池袋線石神井公園駅をスタート、石神井公園→善福寺公園→井の頭公園というコースです。
石神井公園の石神井池は、昭和9年にボート池として水田を堰き止めて造られた人工池です。氷が張ってました。
スリバチ状地形の三宝寺池谷頭を歩く一行。現在の三宝寺池は深井戸からポンプアップして水を補給しています。
厳島神社。江戸時代は三宝寺の弁天社で村民の厚い信仰を受けていました。近くには水神社、宇賀神社があります。
三宝寺池沼沢植物群落。中の島はハンノキなどの木と水草がある浮島です。
中世に豊島氏が築城したといわれる石神井城の土塁と空掘跡。石神井城は太田道灌によって落城となりました。落城時の城主の豊島泰経と長女照姫の入水伝説が伝えられ、殿塚と姫塚として祀られた塚が三宝寺池際の台地上にあります。
三宝寺山門。徳川家光が鷹狩の際に立ち寄ったため「御成門」と呼ばれています。山門前には「守護使不入」と刻まれた石碑があります。守護の徴税使でも入れない格式ある寺院であることを示しています。
石神井公園から西武新宿線上井草駅を経由して善福寺公園に向かいます。旧井荻町では大正期から大規模な区画整理事業が行われました。整然とした街並みの先には井草川の谷があるため、スリバチビューを見ることができます。
井草川の暗渠。お馴染みの暗渠サイン。
井草川の谷頭に位置する切通し公園。杉並区に住んでいた園山俊二の「はじめ人間ギャートルズ」が描かれた楽しい案内板があります。
井草八幡宮。旧上・下井草村の鎮守です。5年毎に流鏑馬の神事がここで行われます。前回は平成28年だったので次回は平成33年です。
善福寺池周辺も区画整理事業が行われたため真っすぐな道が続きます。善福寺池の谷頭に向かって見事なV字状のスリバチビューとなっていますね。
善福寺池の上池。昨年の秋の長雨ではベンチ際まで水が溢れたとのこと。善福寺池でも井の頭池のようにかいぼりをすると池底から水が湧き出しているかも。
市杵嶋(いちきしま)神社。江ノ島弁財天から勧請されたのが始まりで、旱魃時には雨乞い祈願が行われました。
スリバチ地形を活かした参道が素敵です。
武蔵野市に入って井の頭公園に向かう道は、江戸時代の新田開発の名残りがある長く真っ直ぐな道。五日市街道に沿って南北方向に短冊状の地割になっています。ブラタモリの吉祥寺で紹介されたのはここではなく扶桑通りです。
井の頭公園はかいぼり中。
水が湧き出していて水の流れとなっています。
井の頭池は江戸時代、神田上水の水源として大切にされました。弁財天には江戸の町人達が寄進した石灯籠があります。
弁財天脇からも湧き水の流れがあります。
ゴールの階段下。井の頭池も三方向を丘に囲まれたスリバチ状の地形です。標高50mラインの武蔵野三大湧水池はいずれも似たような地形で、かつては豊富な水が湧き出していました。昨年の秋の長雨では各所で豊富な湧水を見ることができましたが、三大湧水池も透き通った池をいつも見ることができるといいですね。井の頭池のかいぼり効果も期待したいです。

次回のフィールドワークは、3月10日(土)に世田谷区の祖師谷です。
詳細はフェイスブック、ブログ、ツイッターでお知らせします。