2019年3月24日日曜日

新潮講座 荻窪北篇

3月17日(日)の新潮講座・荻窪北篇の報告です。

環八シリーズの最後は西武新宿線井荻駅から中央線荻窪駅までのコース。

明治期の中央線がない迅速測図。

明治42年測図。蛇行する井草川と妙正寺池沿いは水田が広がっています。古い道は台地を通り、川や田んぼを渡る時は直角にというのがよくわかります。

昭和2年修正。西武新宿線の南側で区画整理事業が始まりました。井荻地区の土地区画整理事業で、井荻村の全域を対象としたものです。当時の井荻村の村長だった内田秀五郎らによって計画されました。1925(大正14)年に井荻村土地区画整理組合(後に井荻町)が設立され、1935(昭和10)年に事業が完了。事業総面積は約879haと、単一の町村で実施したものとしては全国でも屈指の規模でした。近郊農村だった井荻地区は、都内でも有数の住宅街として発展しました。

昭和20年部修。現在の下井草や清水の地域は、かつては神戸町・中瀬町・沓掛町等の地名でした。

昭和41年改測。早い時期から区画整理事業が行われたおかげか、環八通りができています。

スタートの井荻駅。環八は現在地下を通っています。西武新宿線の踏切は開かずの踏切として有名でしたが、井荻トンネルの完成で便利になりました。

井荻駅のすぐ近くにある井草川の暗渠。井草川は杉並区上井草四丁目にある杉並区立切通し公園付近が水源で、杉並区内を蛇行して流れ妙正寺公園内で妙正寺川に合流します。

井草川の今川支流にある「科学と自然の散歩道」の案内板。小柴昌敏博士のノーベル賞受賞を記念して井草川や妙正寺等とともに遊歩道として整備されています。

神戸町あけぼの公園。「神戸」は"ごうど"と読む昔の地名です。『杉並区史跡散歩』によると「神戸」は「合戸」「強戸」「顔戸」等とともに「郡家」からの転訛や当て字で、各地に例があるように古代の郡司の官署の所在地を示すとのこと。また妙正寺池の南側一帯は「沓掛(くつかけ)」という古い地名もありますが、文字通り沓を掛けて置く店の意味で、日本各地の古駅の所在地に多く残るものだそうです。よって古代東海道の武蔵国の宿駅「乗瀦(あまぬま)」は、妙正寺池の南側ではないかと推定されるとしています。

今川支流の凹みと井荻トンネルの南換気塔。

中瀬天祖神社に。井草川を見下ろす舌状台地上にある旧下井草村字中瀬の鎮守です。昭和20年頃まで例祭日で舌べろ餅という平たい丸餅を参拝者に配っていて、この餅を食べると子宝を授かるといわれ「神戸の鎮守様」として遠方から来る人で賑わっていたそうです。

このような碑があります。

妙正寺池。武蔵野台地標高50mラインのオアシスとして井の頭池等とともに知られています。昭和30年頃までは崖下から水が豊富に湧いていましたが、現在は地下水をくみ上げています。

妙正寺川。妙正寺池を水源として杉並区北部を東流、中野区・新宿区を経て神田川に合流します。川沿い一帯は湿地帯で、田んぼとして利用されてきました。妙正寺川から善福寺川にかけての一帯は、「井荻・天沼地下水堆」という地下水面のもり上がりにより地下水が浅いことで知られています。

妙正寺。1352(正平7)年に建立、1649(慶安2)年に徳川家光が鷹狩りの途中に武運長久を祈り、寺領5石と葵紋の幔幕を寄進したと伝えられています。

清水2丁目から妙正寺川の今川支流の凹み。区画整理された町並みなので、ゆるいスリバチ景色が見られます。

猿田彦神社。天沼稲荷神社の境外末社です。

本天沼稲荷神社。旧天沼村字本村の鎮守です。当地は、1635(寛永12)年に赤坂山王社(日枝神社)領となり、明治初年には山王社から内殿を譲り受けました。

周辺は妙正寺川の本天沼支流の暗渠です。写真の三角地に三峯神社と厳島神社が祀られています。

連華寺。開創は室町時代と伝えられています。1614(慶長19)年に創建、徳川慶寿(一橋家七代)の宝篋印塔などの文化財があります。

日大二高通りを渡った住宅街にあった庚申塔。年号は右が正徳、左が享保なので18世紀の前半のものです。
天沼熊野神社。旧天沼村の鎮守です。創建年代は不詳ですが、社伝によれば新田義貞が鎌倉攻めの際に宿陣し、戦勝を祈願し二本の杉苗を植えたとされます。杉は枯れてしまいましたが、その根が「出世杉」として拝殿横にあります。

桃園川支流の暗渠を歩きました。

桃園川は、天沼弁天池の湧水等を水源として杉並区を東流、途中で阿佐ヶ谷川と谷戸川を合わせ中野区で神田川と合流します。全区間暗渠となっていますが、その佇まいに惹きつけられるものがあります。

天沼八幡神社。旧天沼村字中谷戸の鎮守です。

天沼弁天池公園。
元々は天沼八幡神社の敷地の一部で、天沼の地名の由来とされている天沼弁天池がありました。池の中央には弁財天を祀った島があり、大正時代までは雨乞いの行事も行われていたそうです。1955年から1970年頃までは料亭「天沼池畔亭」に、その後は西武鉄道に売却され西武ゴルフ研修所になりました。2007(平成19)年には杉並区に売却され天沼弁天池公園として開園しました。

ゴールは荻窪駅。荻窪の「荻」が自生しています。

次回のシーズン15は宿場町シリーズです。4月21日(日)は調布に行きます。
https://kohza.shinchosha.co.jp/shincho/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=151946&fbclid=IwAR0mve0rfj3fBOsDNBbX1vokhO-KD5PBFobIonoyMCM_SIrGiBBclqLyxe0


2019年3月21日木曜日

町田・鶴川から玉川学園へ~起伏豊かな多摩丘陵の景色を訪ねに~

3月9日(土)の「町田・鶴川から玉川学園へ~起伏豊かな多摩丘陵の景色を訪ねに~」の報告です。


最近は武蔵野台地でのフィールドワークが多かったでしたが、久し振りの多摩丘陵。小田急線鶴川駅から、いくつかの谷と丘を越えて玉川学園前駅までのコースでした。

明治39年測図。等高線が密集した多摩丘陵。まだ小田急線は開通していません。

昭和4年鉄補。小田急線は1927(昭和2)年に新宿から小田原間が一挙に開通しました。多摩丘陵の谷間をすり抜けるように通っています。

昭和29年修正。玉川学園前駅は1929(昭和4)年の開業。玉川学園の創始者の小原國芳が駅を中心に99haの土地を購入し、その3分の1を学園の用地とし、残りを宅地として分譲して学園の建設資金としました。

昭和41年改測。地図の上部、鶴川団地はまだ造成中。1967(昭和42)年から1968(昭和43)年に完成しました。

昭和50年ニ改。能ヶ谷地区では平和台住宅が分譲されています。

昭和58年修正。三輪緑山や薬師台の宅地が造成中。時系列で地図を見ていくと多摩丘陵の宅地開発が進んでいく様子がよくわかります。

鶴川駅を降りてすぐ、鶴見川と真光寺川の合流地点近くに香山園(かごやまえん)という庭園がありました。地元の神蔵家が所有していましたが、2015年に閉園しました。大河ドラマのロケが行われたこともあり、泉麻人の著書『東京23区外さんぽ』にも出てくる所です。かつては「能ヶ谷の灸」として知られていました。町田市が買い取るとのことなので公開されたら行ってみたいですね。

真光寺川にかかる矢崎橋は矢先橋とも。源義経の家臣、亀井六郎が三輪七面山から射た矢がこの橋を架けた所まで届いたため、その名としたという伝承があります。

江戸時代末期の茅葺きの古民家、現在はサロンとして活用されている可喜庵に。鈴木工務店さんの敷地内にあり、建物内を見学させて頂きました。懐かしくもあり素晴らしい空間でした。

妙行寺横の階段を上ります。

墓地の上からは三輪方面の鶴見川を望む絶景が。

千都の杜。ゆったりとした住宅街を歩きます。

能ヶ谷神社裏からの眺め。右手の林の中に武相荘の建物が見えます。白洲次郎と正子が住んでいました。住宅街の中にぽっかりと昔の鶴川が残っています。茅葺き屋根の家や竹林の散策路、レストランやカフェもあります。

裏谷戸と呼ばれていた付近の真光寺川の谷。川は河川改修により直線化されています。川の両側には丘陵が迫っているため、住宅の擁壁が高くなっています。

能ヶ谷の狐久保付近。写真右手、真光寺川左岸の広袴には鎌倉早道と呼ばれる古道が残っているそうです。1333(元弘3)年の新田義貞による鎌倉攻めに際して、軍勢の一部がこの道を通っていち早く鎌倉に行ったとのこと。広袴の地名は、この地域の地形を袴に見立てたところから名付けられたともいわれています。

能ヶ谷きつねぼ公園に。

かつてここにお化けマンションと呼ばれた建物がありました。法令違反や所有権問題により長らく放置され、仮面ライダー等の撮影にも使われたことがありました。

鶴川団地に。

鶴川中央公園。鶴川団地は能ヶ谷から続く細長い谷沿いに開発されました。かつての谷には学校や公園があります。

リノベされたおしゃれな団地も。通称「ポイントハウス」と呼ばれ、内装も若い人向けになっているそうです。

昭和の香りがする鶴川団地センター商店街。魅力あるお店がたくさんありました。近くにはさらに昭和の香り満載の鶴川団地セントラル商店街があります。ちょっと買い物をして日向ぼっこをするのにいいですね。

鶴川いちょう通り南側にある鶴川団地から見た鶴見川の谷、金井の方向になります。右手が旧金井代官屋敷跡の林。真ん中の崖は木倉川と鶴見川の合流地点付近。

崖を下ります。

鶴見川に架かる弁天橋。

ゴルフ練習所のそば、大蔵町にある椿森稲荷大明神。

金井日向公園から旧金井代官屋敷跡方面。

金井川の谷。暗渠がありました。

旧金井代官屋敷跡の脇の道。この道のすぐ西側に青山街道と呼ばれ、相模川の鮎を江戸まで運んだ道があります。

尾根道から望むアスコットヒル森の丘の住宅街。金井は金井川と木倉川による二つの谷がありますが、さらに丘陵に切れ込むように小さな谷がありました。


1961(昭和36)年の空中写真を見るとよくわかります。上が金井川の谷。真ん中右寄りが木倉川の谷。その真ん中の小さな谷が、現在のアスコットヒル森の丘。

和光大学方面の眺望。

金井七面公園。雑木林の中に七面社があります。

木倉川の谷。このあたりが昔の木倉村の中心。

暗渠から開渠になる木倉川。

金井八幡神社前の青山街道。

金井村の鎮守、金井八幡神社。本殿裏にある「願いを叶う石」が人気とのこと。私も白い石をひとつ持って帰りました。願いが叶うかな。

最後のきつい坂を玉川学園に向かいます。

甚兵エ谷ツと呼ばれた、なかよし公園は見事な谷戸地形。

ゴールの玉川学園。思った以上に楽しめた鶴川のフィールドワークでした。

次回は4月27日(土)に多摩ニュータウン永山地区付近を歩きに行きます。