今回は「町田市景観づくり市民サポーター」のメンバーが参加、所々で解説をして頂きました。メンバーが6年間かけて歩いた成果が2つの冊子となって、町田市のホームページに掲載されています。是非ご覧ください。
「町田をわぎる!」「町田をくりぬく!」
小田急線玉川学園駅~玉川学園~南大谷~高ヶ坂~町田駅まで約11キロの行程でした。
明治39年測図(今昔マップより、以下同じ)。多摩丘陵と相模原台地の地形の違いがよくわかります。
大正10年測図昭和4年鉄補。1927(昭和2)年、多摩丘陵の谷あいに小田急小田原線が開通しました。
昭和29年修正。1929(昭和4)年に、小田急小田原線の玉川学園前駅が開業。
1961(昭和36)年の空中写真。
昭和41年改測。玉川学園前駅の西側や恩田川沿いに住宅が広がってきました。
昭和50年二改。藤の台団地、山崎団地、木曽団地などの団地が建設されています。
玉川学園駅前をスタート、なかよし坂に入ります。
交差点にあるビルのお店では、玉川学園のむかしの物語「へびしんさん」の絵本を販売しています。
なかよし坂。玉川学園では、のらくろ坂、ころころ坂、月見坂など10の坂道に名前がつけられています。
坂の上に出ました。地形を活かした低層の都営住宅と道路中央にある桜の木が印象的。
興人の開発による住宅地。しだれ梅が満開。
堂光塚。調べてみたらこの辺りは、道光塚または動光塚と呼ばれる金井の字名のようです。
金井大ビャク第2公園に。「ビャク」は崖崩れや土砂災害のことを指し、伊豆大島や神奈川県でも言われるようです。
すぐ近くにある金井大ビャク児童公園。
金井茅場公園。かつての土地利用が偲ばれます。
玉川学園つくしんぼ児童公園。小さいですが宅地開発に伴う公園があちこちにあります。
公園脇は鶴川街道の切通し。道路向こうに見えるのは1970(昭和45)年に入居が開始された藤の台団地(UR都市機構)。
次はこの階段を上り、
玉川学園やすらぎ公園に。
崖際の細道を歩き、
玉川学園3丁目の住宅街に。
ここには、四等三角点「玉園団地」があります。
尾根筋を歩いていたら、こんな看板がありました。
恩田川の谷から町田の住宅地を望みます。
1981(昭和56)年に完成した、コーポラティブタウン埴の丘。コーポラティブ方式による住宅地です。
南大谷の天神社。町田三天神のひとつで、あとは菅原神社と町田天満宮。
恩田川に架かる桜橋を渡ります。
満開の河津桜。
恩田川沿いは自転車・歩行者専用道路が整備されていて、カルガモやカワセミの姿を楽しむことができます。
高ヶ坂住宅は、1962(昭和37)年の建築(東京都住宅供給公社)。
谷沿いの暗渠を歩きます。
この暗渠は恩田川に向かっていきます。
成瀬街道に架かる高瀬橋から恩田川を見ると、綺麗な水が勢いよく流れこんでいます。芹ヶ谷公園と熊野神社近くからの湧水です。
芹ヶ谷公園方面に向かって遡ります。
上の写真の手前で枝分かれする流れがありそう(下見時の写真)。
隣りにあるそば処「満屋」も、暗渠沿いか暗渠の上?(下見時の写真)
芹ヶ谷公園を水源とする芹ヶ谷川の流れは、暗渠化され道路に。
町田市立国際版画美術館第2駐車場の裏手に細流がありました。
熊野神社。由緒によると熊野那智大社の地形に似ていて、社殿の裏山に滝があったとのこと。
神社周辺には暗渠が。
社殿の裏手もまさに暗渠。
谷から台地に上がると、国指定史跡「高ヶ坂石器時代遺跡」があります。牢場遺跡、稲荷山遺跡、八幡平遺跡からなる縄文時代の集落跡で、1925(大正14)年、この牢場遺跡で日本で初めての敷石住居跡が発見されました。
高ヶ坂わさび田公園。かつてこの周辺ではワサビ田があったのでしょう。この辺りは多摩丘陵と相模原台地の境目です。
谷から町田市街の台地を望みます。いい感じの坂道。
坂道の途中から谷を眺めると、更地の脇(写真左手)に水の流れを確認。
ここはまさにスリバチ地形の谷頭に位置しています。
上から見ると、個人宅の庭から滔々と水が湧き出していました。
谷に下りると、その庭からきているパイプから大量の水が!
「多摩地形図(之潮)」で確認すると、かつては熊野神社の裏手に流れていったようです。熊野神社の由緒に書かれていた「裏山の滝」とは、この谷頭辺りを指していたのでしょうね。
へび道を上ります。
最後は多摩丘陵と相模原台地、そして高台を走る横浜線を眺めて、町田駅で解散しました。
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