2020年2月23日日曜日

【報告】新潮講座・玉川上水~国立篇

2020年2月の新潮講座は、2月16日(日)に玉川上水駅から国立駅まで歩きました。

多摩モノレール・西武拝島線玉川上水駅から中央線国立駅までの約8キロ。

明治39年測図(今昔マップより)。一面の桑畑と樹林地、集落は五日市街道などの街道沿いに。江戸時代の新田開発当時の様子が窺えます。

昭和5年二部(今昔マップより)。小平学園、国立大学町の住宅が開発、立川に飛行場が開設されました。

昭和41年改測(今昔マップより)。戦後はさらに住宅地が広がり、研究所や大学等が進出していきました。

スタートの玉川上水駅。

駅名の通り、近くに玉川上水が流れています。河津桜が早くも咲いていました。

清願院からの玉川上水。『玉川上水 親と子の歴史散歩(たましん地域文化財)」によると、左岸の土手が高くなっていますが、これは上水を掘削した際に積み上げられた土砂とのことです。羽村取水堰で取水された多摩川の水が流れています。

見上げると多摩モノレール。軌道下は西武拝島線です。

下流に向かって歩きます。この辺りが国分寺崖線の坂、段丘面が立川面から武蔵野面になるため、玉川上水が深く掘り込まれている様子がわかります。玉川上水はここから南東に向きを変え、いよいよ武蔵野台地の尾根筋を流れていきます。

小平監視所。羽村取水堰で取水された多摩川の水は、羽村第三水門から村山貯水池に向かうルートと、この小平監視所まで送られて東村山浄水場へと向かうルートがあります。

小平監視所から下流を流れている水は、1986(昭和61)年に「清流復活」事業として、昭島市宮沢の下水処理場から送られてくる高度処理水です。水の色が明らかに違いました。

上水小橋から。玉川上水の堀の下まで下りることができる貴重な場所で、ローム層が迫ってきます。

小平監視所から南に。畑の後ろに見えるのが国分寺崖線、標高差2メートルくらいです。


中学校近くの国分寺崖線。標高差約4メートル。

国分寺崖線沿いに古民家園があります。この小林家住宅は砂川九番組の組頭を務めた旧家の小林家の母屋で、江戸時代末期の嘉永年間に建てられた六間型の茅葺民家です。

雛飾りの企画展中でした。

畑の向こうに続く国分寺崖線。崖上に子育地蔵があります。

子育地蔵は、砂川八番と砂川九番の間にあります。砂川の新田開発は、1609(慶長14)年頃から村山郷岸村(現在の武蔵村山市)の村野氏が幕府の許可を得て、水の得やすい残堀川の付近で始まったといわれます。1654(承応3)年に通水した玉川上水により砂川分水が1657(明暦3)年に許可・通水され、五日市街道に沿った東西に長い村として発展していきました。享保の新田開発により九番が、1797(寛政9)年には十組となりました。現在の地名に新田開発当時が偲ばれます。

立川市と国分寺市の境界。ここから享保年間に中藤(現武蔵村山市)の農民、内野氏(中藤氏の祖先)が開拓したといわれる中藤新田です。

西町の国分寺崖線。標高差6メートル。いい坂ですね。

西町たいない掘緑地。中藤新田分水と平兵衛新田分水は、幕末に下流の南野中新田が分水口を移したことにより水が流れなくなり、胎内掘りで通水したとのこと。「胎内堀り」とは、トンネルとなった水路のことです。

この辺りを流れていたのでしょうか。不自然に広い道です。

崖下に下りると、神山家養蚕棟が残っています。

近くには立派な長屋門がありました。上棟式のものでしょうか、弓矢などが天井に飾られています。

中藤家醤油醸造所跡。

神明社がある国分寺崖線。標高差約8メートルと高低差が大きくなってきました。

観音寺。鎌倉時代後期に滝山城の鬼門を守る寺として中藤村(現武蔵村山市)に創建され、中藤新田が開発された享保年間に現在地に引寺されました。境内には川崎平右衛門と亮瑞和尚の遺徳を偲ぶ供養塔があります。山門は滝山城からの移築といわれます。

ここは国分寺市に立川市が突き出ている境界になっています。

Mapionで見る国分寺市と立川市との境界。出っ張ったり、引っ込んだりと理由があるのでしょうね。

下弁天のバス停。弁天通りを北に行くと上弁天のバス停があります。

ここには辨天八幡宮が鎮座しています。榎戸新田弁天組が開拓された1728(享保13)年の創建といわれます。

弁天通りに沿って、平兵衛新田分水が流れていました。

国分寺市から国立市に。

鉄道総合技術研究所引込線跡。


かつて引込線は国立駅とつながっていました。マンションの向こうに遊歩道「ポッポみち」として整備されています。

次回は3月15日(日)、谷保から国立までのコースです。

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