2019年2月17日日曜日

用賀から桜上水へ ~住宅街に隠れた地形の「何か」を確認しに行く【Part1】

2月9日(土)に開催した「用賀から桜上水へ~住宅街に隠れた地形の「何か」を確認しに行くの報告です。長くなりそうなのでPart1とPart2に分けて報告します。


今回のフィールドワークは、武蔵野台地の下末吉面にあたる荏原台の西端から、同じく下末吉面の淀橋台の西端に向かって歩くというのが、「隠れた地形」というスリバチらしく地味なテーマなのでありました。カシミール3Dの地図で茶と緑色の境が標高45m、緑とグレーの境が標高40m。下の茶色の部分が荏原台、上の茶色の部分が淀橋台です。NHK番組「ブラタモリ」によく赤色立体地図を提供されているアジア航測の千葉達朗先生から、世田谷区の赤色立体地図を参加者の方にということで頂戴しました。ありがとうございました。


明治42年測図。集落の間を蛇行する河川と水田が印象的ですね。北側に甲州街道、南側に大山街道、左上から右下にかけてが品川用水です。京王線と小田急線は開業していませんが、大山街道沿いに玉川電気鉄道(玉電)の軌道が見えます。玉電の渋谷~玉川間が開業したのは1907(明治40)年です。


昭和4年二修。地図左側の太線が気になりますが、1932(昭和7)年に現在の世田谷区のうち荏原郡の町村が東京市に編入されました。一方、砧村と千歳村は北多摩郡の所属となり、世田谷区に編入されたのは1936(昭和11)年のことです。その境界が示されているようです。関東大震災後、世田谷は住宅地として開発されるようになり、病院等の大規模施設が置かれるようになりました。


昭和20年部修。地図の下の方が区画整理されています。現在の用賀地区の格子状の整然とした街並みですね。これは1924(大正13)年から実施された「玉川村全円耕地整理事業」です。玉川村の全域にわたる大規模な耕地整理事業だったため、工事の終了は1944(昭和19)年、さらに清算・登記の終了は1954(昭和29)年までかかったそうです。


昭和41年改測。環八通りの予定地が点線で入っています。その場所をよく見ると興味深いです。


昭和51年二改。一面にわたり住宅地に。白くなっているのが砧公園、馬事公苑、学校などの施設。


1945年の空中写真。カシミール3Dは便利です。


降雪予報で心配したのですが、雪は最初と最後だけで助かりました。厳しい寒さのなか大勢の方が参加されました。皆さん楽しそうですね。雪と寒さで写真が上手に撮れなかったので、下見の際の写真も掲載します。


最初は田中橋の石標に。ご覧の通りの吹雪のなか、世田谷在住の藤沢さんに解説して頂きました。田中橋はかつて谷沢川に架かっていた橋です。


谷沢川は等々力渓谷まで流れて行きます。ここでは首都高速の下を流れていますが、暗渠ではなく開渠になっています(写真は下見)。


次は玉電用賀駅跡の石標に。1907(明治40)年に開業した玉電は、ジャリデンとも呼ばれ、多摩川の砂利を運搬する目的がありました。用賀駅には電車の折返所もあり、駅前には都心から子供たちが遠足に来る用賀梅林があったそうです。

次の石標は大山道追分です。現地に行ってみるとわかるのですが、追分というには四差路です(写真は下見)。


反対を向くとこのように(写真は下見)。

明治期の迅速測図を見ると三差路。江戸時代は、ここに右は江戸道、左は世田谷四谷道」と書かかれた道しるべの石塔が建っていたそうです。江戸道は大山街道として渋谷に向かいます。世田谷四谷道は江戸道より古い道で、北に向かうと登戸道(現在の世田谷通り)と合流して、さらに三軒茶屋で江戸道とまた合流します。当時は用賀村の中心で賑やかな所だったそうです。

それが昭和4年の地図を見ると四差路になってます。これは1923(大正12)年に、人口が急増した渋谷町に上水を供給するために、渋谷町上水道という水道みちができたのが理由です。

 ここの解説は古道研究家の荻窪さん。

水道みちを歩いて、途中にある真福寺と無量寺に寄りました。

用賀の歴史は古く、真福寺は約400年前に創建されました。用賀の語源はヨガ(瑜伽)、鎌倉時代にはヨガの道場があったといわれています。真福寺の山号は瑜伽山、大山道に面し山門が朱塗りのため赤門寺とも呼ばれていました(写真は下見)。

無量寺約400年前の開山で、用賀の観音さまという名前で呼ばれる事もあります。大銀杏が印象的なお寺で、その風景から世田谷百景に選定されています。

午前中は区画整理された用賀の住宅街に残る谷沢川の暗渠を辿ります。まずは天神溜池に向かって谷沢川の支流暗渠を歩きます。

雪が少し積もったコンクリート蓋暗渠に風情を感じます。

天神溜池跡の近くの小高い所には、かつて天神山と呼ばれ天神さまの社があったそうです。ここではないかと思われるような場所でした。天神さまは用賀神社ができた時に、合祀されたそうです。

ここから天神溜池跡に向けてのビューがなかなかよろしいです(写真は下見)。

天神溜池跡。現在は天神児童遊園になってますが、1720(享保5)年に水田に使う水を溜めるために作られました(写真は下見)

当時は池が三つあったそうです。明治42年測図で黒くなっているのが池かと思います。

西側を歩いていくと、谷沢川本流の窪みが区画整理されているためによくわかります。

本村稲荷を過ぎ、旧用賀名主邸の石標に。歩いているとこの石標をあちこちに見かけます。これは1984(昭和59)年に設立された玉川地域活動団体連絡協議会玉川の名所旧跡に173本の石標を建てたそうです。現在は世田谷区の玉川総合支所地域振興課が事務局として活動を続けているとのことです。こちらのブログをご覧ください。

谷沢川の暗渠を歩きます。

さらに歩きます。暗渠は交差点を通ってます。


ところで耕地整理事業がなされた用賀は、東西方向の通りの名前が〇条通りと京都のようです。手作りの案内板が素敵です(写真は下見、この時はほんとに天気がよかったなぁ)。


環八通り近くの暗渠を歩いていくと、


谷沢川湧水池跡の石標。谷沢川の源流域はまだ先ですが、ここは湧水池というよりは上流の水が溜まった池だったとのことです。

明治42年測図。真ん中の小さい黒丸がそれっぽいですが、どうでしょうか。地図の上の方にある道路が曲がっていますが、現在の世田谷通りの登戸道です。

世田谷通り。右が旧道、左が新道です。旧道は谷沢川(暗渠)を直角に越えています(写真は下見)。

世田谷通りを超えると谷沢川が開渠となって流れています。この水が等々力渓谷まで流れていくんですね。

宇山稲荷神社に。境内に掲示されている宇山稲荷神社の由緒によると、宇山という名前は新編武蔵風土記稿の荏原郡の部に「宇名根山谷村の西の隅にあり」と記されていて、それが縮まったものと思われるとのこと。元々多摩郡宇名根村の人達が開墾したそうです。荏原台の高台に鎮座しています。

荏原台を刻んでいる谷沢川の谷を遡上し谷沢川の源流域に。

そして荏原台の台地を超えて千歳通りに。ここをかつては品川用水が流れていました。玉石垣が綺麗で、千歳通りの両側に植えられている桜並木とともに素敵な景観です。
Part1はここまで。千歳船橋駅前で昼食休憩しました。

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