芦花公園駅からスタートして「6」の字をひっくり返したように歩きました。
明治42年測図。徳冨蘆花が青山から移り住んだのが1907(明治40)年、京王線はまだ開通していません。1913(大正2)年に笹塚駅から調布駅が開通しました。地図記号の水田を流れている川は、北から北沢川(北沢用水)、烏山川、水無川です。
大正6年測図。芦花公園駅は上高井戸駅として開業、上北沢駅は1917(大正6)年に北沢駅に改称しました。徳冨蘆花の1913(大正2)年の作品『みみずのたはこと』では、自給自足の純農村地帯が東京への蔬菜供給地に変化していく様子が描かれています。
昭和7年要修。1919(大正8)年に東京市巣鴨にあった東京府巣鴨病院が現在地に移転、東京府松澤病院として診療を開始しました。
昭和41年改測。田圃が埋め立てられ団地や学校等になっていく様子がわかります。東京ガスのガスタンクや清掃工場の大規模施設もできました。
昭和51年ニ改。環八通り(通称、環八)が開通しています。環八は1971(昭和46)年4月に小田急線との立体交差が完成、同年8月に粕谷と八幡山町との境に開通しました。
スタートの芦花公園駅東側を通っている千歳通りは、世田谷区と杉並区の境界です。昭和の香りのする商店街。
旧甲州街道をしばらく歩くと、井の頭弁財天への道標があります。江戸時代からこの場所に置かれているといわれ、旧甲州街道をここで右折して弁財天を目指していました。
甲州街道を渡ってすぐ北側の暗渠、烏山川支流です。歩くと井の頭弁財天への参詣道や甲州街道より低い土地ということがわかります。
ここは医王寺の旧境内で、薬師池と呼ばれる池があった場所です。付近は湿地で涸れることなく水が湧き、眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説がある池です。現在は危険なため埋められています。
医王寺。834(承和元)年に弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚が上高井戸に草庵を建てたといわれています。本堂は西に向いているため西向薬師とも、江戸時代以降は「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれました。
杉並区上高井戸にある医王寺から、北沢用水暗渠がある世田谷区上北沢に入りました。
北沢用水の暗渠道をしばらく歩きます。北沢用水は、1658(万治元)年に玉川上水から開削され北沢川に助水され、上北沢・赤堤・世田谷・松原・代田の各村の灌漑用水として利用されました。
いい雰囲気ですね。
甲州街道を渡るとコンクリート蓋に。ここもいい雰囲気。
京王線をくぐります。
こちらも京王線をくぐっていきます。
都立松沢病院の敷地内にある将軍池。1921(大正10)年から1926(大正15)年にかけて患者の作業療法の一環として造られた池です。池の名は作業に参加した患者で自称「将軍」の芦原金次郎氏にちなんだものです。また加藤山という築山がありますが、作業を指導した医長・加藤普佐次郎氏に由来します。池がある一帯は北沢川の水源のひとつです。
建物の向こうにある将軍池からの北沢川の暗渠。北沢用水と北沢川がいく筋かになって流れていきます。
八幡社。八幡山の地名の由来となった神社で、滝坂北道に面しています。
烏山川への斜面を下りていくと、小さな池がある八幡山かまのくち緑地に。自然保護のため立ち入りができません。隣りには高橋果樹園というりんご農園があります。りんご農園は23区内に2軒しかないそうです。
のくち緑かま
じゃぶじゃぶ池。冬のためか水が流れていませんでした。この一帯は、縄文時代中期や江戸時代の炭焼窯の遺跡が発掘されました(八幡山遺跡)。烏山川暗渠を辿っていくと環八に出ます。烏山川は環八に沿って開渠に。団地の建替え構想のお知らせがありました。
環八を渡って蘆花恒春園に。近くにある東京ガス世田谷整圧所のガスタンクは、廻沢のガスタンクとして「せたがや百景」に選ばれています。1956(昭和31)年に2基が建てられ、現在は5基あります。
徳冨蘆花の旧宅。『不如帰(ホトトギス)』『みみずのたはこと』等の名作で知られる、徳冨健次郎(蘆花)が1907(明治40)年から20年間、愛子夫人と住んだ場所です。蘆花はこの地を永住の地とし、美的百姓と称して晴耕雨読の生活を送りました。母屋、秋水書院(書斎と寝室)、梅花書屋等から当時の生活の様子が偲ばれます。蘆花恒春園は、蘆花死去後十周忌の1936(昭和11)年に愛子夫人から東京市に寄付され、1938(昭和13)年に開園しました。
旧宅の隣に、兄の徳富蘇峰の銘による蘆花夫妻の墓があります。
蘆花恒春園に隣接している粕谷八幡神社。旧粕谷村の鎮守で、鳥居の近くには上部が切られた杉の木「別れの杉」があります。蘆花の『みみずのたはこと』の「わかれの杉」には次のように書かれています。"村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下に立って色々の人を送った。此杉は彼にとって見送りの杉、さては別れの杉である。"
「わかれの杉」では次のような描写もあります。"宮から阪の石壇を下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。此杉の下から横長い田圃がよく見晴される。田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。"
「田川」ではこんな描写も。"八幡田圃を流るゝ田川の大きな方を、此辺では大川と云う。一間幅しかない大川で、玉川浄水を分った灌漑用水である。"
現在の八幡田圃には環八が通り、自動車が途切れることなく流れています。
1960年代に建てられた都営八幡山アパート。かつては薬師池からの流れ(烏山川支流)がありました。
八幡山駅の南側は区界が入り組んでます。道路をはさんで左が世田谷区、右が杉並区。
ゴールの八幡山駅。赤堤通りはかつて荏原郡と北多摩郡・東多摩郡との境を通っていた府中道です。
今回は世田谷区の微地形・暗渠のコースでした。次回の新潮講座は2月17日(日)に井の頭線高井戸駅からJR荻窪駅に向かって北上します。
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