2019年2月23日土曜日

用賀から桜上水へ ~住宅街に隠れた地形の「何か」を確認しに行く【Part2】

2月9日(土)の「用賀から桜上水へ~住宅街に隠れた地形の「何か」を確認しに行く」の報告Part2は、千歳船橋から桜上水までです。


今回の隠れたテーマのひとつは、"武蔵野台地の荏原台西端から淀橋台の西端に行く"。午後は荏原台の西端からスタート。カシミール地図を見ると台地に三つの谷があるのがわかります。環八通りは左端の谷を通っています。


環八通り沿いの桜丘すみれば自然庭園から歩道橋を渡ります。右側に見えるのは隈研吾のデザインによるマツダの東京拠点だったM2(現在は斎場)。


荏原台西端への坂。


荏原台西端の丘に到着。東京都水道局大蔵給水所付近が標高約54mで23区内でも標高の高い所のひとつです。


大蔵給水所は、昭和初期に完成したかつての日本水道東山野給水場でした。狛江浄水場から駒沢地域に給水され、1932(昭和7)年頃から成城町にも供給されるようになりました。


荏原台を北に下って小田急線をくぐると笠森公園があります。公園の横には荒玉水道道路(写真左)と谷戸川(写真右の暗渠)が。


環八通りから船橋の町に入ります。


明治期の地図。左上から斜めに流れているのが品川用水、現在の千歳通りです。品川用水は玉川上水の分水で、現在の武蔵野市から取水されて品川区まで引水されました。


品川用水を越えて烏山川支流の暗渠に。かつて船橋には七つの湧水があって烏山川に流れていたそうです。


暗渠を辿っていくと船橋観音堂に。観音堂前の道は鎌倉道と伝えられています。

能勢公園から船橋の小径に。都立千歳丘高校の敷地(かつては上智大学のグラウンド)を流れていた烏山川支流が暗渠となり、学校敷地の周りに付け替えられました(写真は下見時)。

荒玉水道道路と烏山川緑道。船橋の名前の由来は、かつてこの地が湿地帯で船の橋を架けたことに由来するそうです(写真は下見時)。

明治期の地図。鎌倉道が烏山川の谷筋を越えていきます。

烏山川の谷筋から台地に。北沢用水上堀から分かれた江下山堀です。住宅地にのどかな雰囲気が残っています。

近くには開渠の水車堀があります。北沢用水上堀は上北沢自動車学校付近で江下山堀と水車堀に分かれていました。左手は密蔵院です。詳しくは本田創さんのこちらのブログを。https://tokyoriver.exblog.jp/16828988/

北沢川の暗渠。谷筋には自然河川の北沢川が、台地上には開削された北沢用水が並行するように流れていました。

日本大学文理学部の陸上競技場(写真は下見時)。

いよいよ今回の目的地である淀橋台の西端に近づいてきました。

淀橋台の台地への坂道。右手の桜上水ガーデンズは三井牧場の跡地にあります。世田谷は大正末頃から養豚や酪農が盛んになりました。都市部の急激な都市化と関東大震災による畜産業の郊外化によるものです。三井牧場は1918(大正7)年に、三井合名会社が三井家の自家用牛乳を製造していました。

桜上水駅近くの電柱にその痕跡がありました。

精励会の敷地と道路との間の崖。

桜上水5丁目マップという案内板をあちこちに見かけます。

南北の道には坂、東西は道という名前になっています。

花火坂の案内板。二子玉川や川崎の花火がよく見えることが由来とのこと。この付近が淀橋台の西端、標高は約49mです。

タッピング坂。昭和15年から昭和32年頃まで近くに洋館があり、通訳や翻訳の仕事をしていたヘレン・タッピング氏が住んでいたことが由来です。

荒玉水道道路。淀橋台の台地から北沢川の谷筋の高低差がよくわかります。また雪が降ってきました。桜上水駅で解散、下高井戸駅近くで懇親会を開催しました。

次回は、3月9日(土)に町田市鶴川に行きます。

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