2018年6月17日日曜日

深大寺と丸池~標高50mライン番外編その2

6月9日(土)に開催したフィールドワーク「深大寺と丸池~標高50mライン番外編その2」の報告です。前回の「西荻窪から荻窪」に続く標高50mラインを歩くフィールドワークです。


京王線柴崎駅からつつじヶ丘駅まで約15キロ歩きました。カシミール3Dでは標高50mラインをベージュと緑、標高40mラインを緑とグレーの境目にしました。国分寺崖線と崖線に切れ込んだ谷、入間(いりま)川と仙川の谷が複雑な地形となっていて、スリバチ歩きを楽しめるエリアです。

明治時代の地図。集落は甲州街道と佐須街道沿い中心に見られ、台地は畑地で谷間は田んぼになっています。

京王線の柴崎駅をスタート。

京王線は昭和2年まで甲州街道の北側を走っていました。当時の地図を見ると旧路線が載っています。
昭和20年頃の航空写真にもくっきりと。一番北に斜めに走っている線が旧路線です。

野川沿いにある中学校の敷地の中に「京王電車ここを通る」という案内板があります。

近くは一面のキャベツ畑。

野川に注ぎ込むマセ口(ませぐち)川。都立農業高校神代農場の湧水などが水源です。

マセ口川は佐須用水とも呼ばれ、佐須地域の灌漑用水として利用されてきました。

祇園寺に着きました。この寺院は深大寺と同じく満功上人が開山した古刹で、天平年間(729~749年)の創建と言われます。マセ口川と北の川に挟まれた微高地にある縁結びゆかりのお寺です。

カニ山(写真右側の林)の近くにある田んぼは田植えが終わっていました。ここは国分寺崖線に切れ込んだ谷で、池の谷戸と呼ばれます。

のどかな風景の中を歩いていきます。

池の谷戸を横切っている中央自動車道をくぐると、都立農業高校神代農場の谷底に着きます。神代農場から流れ出てくるきれいで豊富な湧水に皆さんびっくり。

都立農業高校神代農場は毎週木曜日とカタクリの季節に一般公開しています。谷戸地形の中でワサビやシイタケ、米を栽培し、またニジマスを養殖しています。地形も魅力的なので一度行かれてみてはいかがですか。写真は去年4月の公開日の際の写真です。

谷を上り中央自動車道を越えて国分寺崖線を降ります。ここはセイトの坂と呼ばれる急坂。はるか向こうには多摩丘陵が見えます。

延喜式内社の虎狛神社にも寄りました。古代多磨郡には905年(延喜5)、醍醐天皇の命に寄り編纂された延喜式に載る式内社が8社あります。虎狛神社は多摩に2社あり、もう1社は青梅市にある虎柏神社です。

深大寺に向かうルートは国分寺崖線を上るこの道にしました。国分寺崖線の上は深大寺城址です。木々の緑が気持ち良かったでした。

深大寺に到着。深大寺を流れる北の川は深沙大王堂付近が水源です。

蒸し暑かったせいか人出が少なかったでした。

昼食休憩は深大寺蕎麦!青木屋さんから見た亀島弁財天池はかいぼりが終わって池はきれいです。

深大寺はいつ来てもいいですね、緑が多くて落ち着きます。白鳳仏は国宝に指定されました。

昼食休憩後、最初に訪れたのは水生植物園と深大寺城址。ここも国分寺崖線に切れ込んでいる長い谷です。深大寺はこの谷の中にあります。

北の川が水生植物園の脇を流れています。

谷から台地に上がるとそばが植えられています。ここが深大寺城址です。

深大寺城は、標高50mの舌状台地に築城されています。築城された年代は不明ですが、戦国時代に小田原北条氏と扇谷上杉氏との攻防の中で扇谷上杉方が再興したものです。城址には空堀や土塁等が残っています。皆さんが歩いているのは広々とした第2郭。

多聞院坂から青渭神社に来ました。往古は社前の境内地に大池があり、涸れることのない湧水が青波をたたえていたことから青波天神社とも称されました。神社前の三鷹通りの向うは神代農場がある池の谷戸です。かつてはここに大池があったのでしょうね。ちなみに青渭神社も延喜式内社。青渭神社は多摩に3社あり、他の2社は稲城市と青梅市にあります。

深大寺地域の台地上には明治初期に深大寺用水が開削され玉川上水から分水されました。東堀と西堀に分かれていて、ここは深大寺用水西掘でしょうか、用水の跡っぽい感じがします。

入間(いりま)川の方に歩いていくと、深大寺用水東掘の暗渠があります。

ここは入間川の暗渠。かつての川は道路に、水田は住宅になりました。

入間川の谷を越えて海上技術安全研究所に着きました。カマボコ型の建物の中には世界最大級の長さ400m、幅18m、深さ8mの試験水槽があります。建物の向うには十王道または鎌倉街道と呼ばれる古道があります。

古道は海上技術安全研究所の公開日に見ることができます。今年4月の公開日に撮影した写真、いい雰囲気ですね。

十王道は調布市と三鷹市の境界です。両市のマンホールが並んでいます。

仙川(せんかわ)です。写真に見えている川の水は、ここから800mほど下流にある樋口取水場で汲み上げた地下水で、1日1万トンのうち3千トンを上流の野川宿橋まで送って流しています。仙川の元々の水源は写真左側にある丸池の他に、写真右側にベンテンヤと呼ばれた水源がありました。

仙川の脇にある丸池公園で地元から参加された方から解説をして頂きました。仙川は仙川地下水堆という地下水位が高くなっている所で、「千の釜」と言われるほど豊富な地下水があることで知られています。仙川の水源だった丸池は周辺の都市化により1969年(昭和44)に埋立てられました。しかし丸池と仙川の清流の復活を願い、2000年(平成12)に丸池が復活しました。現在は1日3万トンの地下水を汲み上げています。また地域の取り組みとして「丸池の里わくわく村」が様々な活動をしています。

勝渕(淵とも)神社。ここには戦国武将の柴田勝家の黄金の兜を祀ったという塚があります。

写真は昭和20年頃のこの付近の航空写真です。真ん中にぽっかりと島のようになっている一帯は現在は新川団地ですが、かつては島屋敷と呼ばれ江戸時代初期には、柴田勝家の孫勝重が陣屋を構えていたとされています。戦国期には金子弾正が住んだという伝承もあります。また1955年(昭和30)まで津村薬草園がありました。

仙川沿いを下っていくと仙川に突き出した小さな舌状台地があります。天神山砦と言われる中世の砦です。空堀や土塁が残されていますが詳細は不明のようです。ここも標高50mです。

春清寺に。徳川家臣青山百人組のひとり大原文左衛門春清が草庵をつくり、無徹玄心を招き1602年(慶長7)に創建されました。この地を知行した柴田勝重が中興開基したものです。勝重の墓があります。

フィールドワークの最後は、標高50mの台地から入間川(三鷹市では中仙川と呼びます)の谷を望むスリバチビューです。

谷に降りて中仙川の暗渠を歩いて、つつじヶ丘で解散しました。

多摩武蔵野スリバチ学会のフィールドワークは夏の間はしばらくお休み。次回は9月22日(土)に調布~狛江に歩きに行きます。

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