2018年6月3日日曜日

西荻窪から荻窪へ~標高50mライン番外編その1

5月26日(土)に開催したフィールドワーク「西荻窪から荻窪へ~標高50mライン番外編その1」の報告です。


午後スタート。中央線西荻窪駅から荻窪駅まで、主に中央線の北側を11キロ歩きました。カシミール3Dの地図では標高50mがベージュと緑、標高45mは緑とグレーの境目です。微地形ですが複雑な地形になっています。

明治の迅速測図では、まだ中央線(当時は甲武鉄道)は開通していません。ほとんど畑か田んぼですね。

昭和初期の地図。関東大震災後は、町並みが荻窪駅や西荻窪駅周辺に広がってきた様子がわかります。

スタートは中央線西荻窪駅近くにある松庵川の暗渠を遡上。松庵川は善福寺川の支流で、地元では大宮大下水溝とか大宮前大下水と呼んでいました。

写真の周辺は松庵窪(男窪)と呼ばれる水源のひとつで、標高約50mです。中央線を北側に越えてさらに松庵川を遡ると松庵窪(女窪)の水源にたどり着きます。松庵窪は甲武鉄道敷設のための土取場が池になったともいわれます。

松庵川源流部から台地を少し歩くと善福寺川に着きます。善福寺川は善福寺池が水源ですが、その他に千川上水から高度処理水が流れていたり、また湧水も健在で写真は原寺分橋下の湧水です。皆さんが歩いているあたりが標高約45mです。


しばらく善福寺川沿いを歩きます。カルガモの親子がいました。


善福寺川の右岸に丸山という周囲より小高い丘があります。城山とも呼ばれ源義家が陣したことが名前の由来です。明治期まで鬱蒼とした雑木林で七ツ井戸と呼ばれた井戸があったそうです。


荻窪八幡神社に着きました。旧上荻窪村の鎮守で1100年ほど前の創建と伝えられ、太田道灌が石神井城に進撃する際に植えた道灌槇があります。

道路を挟んで、懐かしいアニメが楽しめる杉並アニメーションミュージアムがあります。建物の杉並会館の設計は、かつてのソニービルの設計でも知られる芦原義信氏です。

建物前から善福寺川方面のゆるいスリバチビュー。

青梅街道を渡った所にあるURや桃井原っぱ公園は旧中島飛行機発動機の工場で、かつてはゼロ戦のエンジンの設計・製造をしていました。現在は災害時の拠点を兼ねた公園になっています。

ここからは井草川や妙正寺川の支流で、現在は暗渠になっている所を歩いていきます。

皆さんが見ているのが杉並区の暗渠でよく見かける金太郎の車止め。写真は下見の時のもので上の写真と場所は違います。

観泉寺に着きました。戦国武将の今川家にゆかりのあるお寺で今川家累代のお墓があります。今川家の子孫は江戸時代にこの地を知行地として給されました。この周辺が今川と呼ばれるのもそのためです。

庭が素敵ですね。ゆっくりしたくなりますが先を急ぎます。

妙正寺川の桃井支流暗渠を歩いて妙正寺池につきました。周辺は小さなスリバチ地形になっていて標高は40mほどです。亀の甲羅干しを撮影する皆さん。


妙正寺川スタート地点の落合橋。落合橋は井草川と落ち合うので着いた名前でしょうか。妙正寺川は延長約9キロ、新宿区下落合で神田川に合流します。


ここから南下して天沼方面に向かいます。途中にあった六差路。古い道に新しい道が作られた結果できたものですね。


道といえば日大ニ高通りは古代の東海道ルートとの説があり、この付近に乗潴駅があったといわれます。


天沼弁天池公園。明確なスリバチ地形ではありませんが桃園川の水源です。この周辺は天沼地下水堆と呼ばれて地下水位が高く水の湧きやすいところです。現在の池は涸れてしまって人工のものです。


桃園川の暗渠を歩きます。桃園川は灌漑用水としては水量が少なかったこともあり、六ケ村分水から助水されていました。井伏鱒二が通っていた蔦の湯の跡地が追分用水跡の暗渠沿いにあります。


中央線をくぐり青梅街道の天沼陸橋交差点。右が天沼陸橋で左が旧道です。旧道には1960年代前半まで都電杉並線が走っていました。現在は道路下に地下鉄丸ノ内線が通っています。


西郊旅館・西郊ロッヂング。戦前に建てられた賄いつきの高級下宿で、現役の旅館と賃貸住宅です。解散は明治天皇荻窪御小休所跡でした。

次回は6月9日(土)、「深大寺と丸池~標高50mライン番外編その2」です。参加したい方はフェイスブックか、このブログでご案内しています。お気軽にどうぞ!
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