2019年2月24日日曜日

新潮講座 荻窪南篇

2月17日(日)の新潮講座・荻窪南篇の報告です。

井の頭線高井戸駅から環八通りの東側を北上して荻窪駅までの行程でした。

明治期の迅速測図。中央線がまだ開業していない地図です。昔の上高井戸村、田端村、下荻窪村を歩きました。

明治42年測図。神田川と善福寺川の間を人見街道・五日市街道・神明通りが通っています。集落は大宮前新田の五日市街道沿いにあるのが目にとまります。

昭和2年修正・昭和4年ニ修。都市部の急激な発展により住宅の波がやってきました。南荻窪周辺が区画整理されていく様子がわかります。

昭和41年改測。善福寺川沿いの田んぼに荻窪団地が完成しました。環八通りはまだ一部開通していないようです。高井戸東三~柳窪~川南の道が開通前の道です。

スタートは井の頭線高井戸駅。杉並清掃工場の煙突が目を引きます。環八通りが神田川に架かる橋は佃橋。

佃橋のたもとから勢いよく水が流れ出していますが、これは玉川上水の水。といっても多摩川から取水された水ではなく、小平監視所から流れてくる高度処理された下水の再生水です。現在の都営上高井戸住宅の周辺は、かつて佃たんぼが広がっていました。

環八通りと旧道(右側)の交差点。このあたりはかつて高井戸杉丸太の産地として知られていました。高井戸の杉はとても良い品質だったそうです。

人見街道沿いにある松林寺。1593(文禄2)年の開創で当初は正林寺と称していましたが、1713(正徳3)年に周辺に松が多かったことから松林寺と改められましたそうです。


五日市街道沿いの三角地帯に、五日市街道のモニュメントがありました。


五日市街道から入る狭い道が神明通りです(写真左)。新田道、北街道とも呼ばれたそうです。大宮前新田の開発時に作られました。


善福寺川に向かうと、素敵な生垣、屋敷林、農地が残った所があります。荻窪の生垣として杉並「まち」デザイン賞を受賞しています。善福寺川の谷に下ります。


善福寺川。


善福寺川の谷筋から台地に上がると田端神社があります。長い参道ですね。旧田端村の鎮守で、かつては北野神社(天満宮)、社殿の場所が田の端にあったことから田端天神とも呼ばれていました。


社殿の向こう側は善福寺川。田んぼの水路だった所が天神橋公園になっています。


西田端橋から大谷戸橋、シャレール荻窪(昔の荻窪団地)を望みます。江戸時代の天保年間に桃園川流域の田んぼを灌漑するために、善福寺川から天保新堀用水が掘削されました。大谷戸橋の近くで取水されました。


西田端橋を渡り、南に歩いていくと松庵川の暗渠があります。金太郎の車止め。


谷筋の暗渠から台地上にある松渓公園に。縄文遺跡を地下にそのまま保存した公園としては、都内で初めてのものだそうです。


杉並区に住んでいた漫画家の園山俊二による案内板があります。はじめ人間ギャートルズの案内板は、この松渓公園、切通し公園と方南2丁目公園の三か所で見ることができます。ここは改修されたようでとても綺麗でした。


中道寺。山門は1773(安永2)年の建立で鐘楼を兼ねた鐘楼門です。立派な松が印象的。


松渓中学校の脇を松庵川の暗渠が続いています。松庵川は善福寺川の支流で、水源はJR中央線西荻窪駅北西にある吉祥女子中学・高等学校付近の松庵窪(女窪)とされます。大宮前下水、大宮下大下水と呼ばれていたものを郷土史家が松庵川と称して広まったとのこと。西荻窪や宮前を東流(正確には南東に)した後、柳窪付近で北流して善福寺川に合流します。合流する前の暗渠が暗渠らしくいい雰囲気です。

善福寺川を渡り荻外荘(てきがいそう)に。善福寺川左岸の南向き傾斜地には、大正から昭和初期にかけて文化人等の別荘や住宅ができました。荻外荘は1927(昭和2)年に伊東忠太の設計により、東京帝国大学教授・宮内省侍医頭を歴任した入沢達吉の邸宅として建設され、当初は楓荻荘(ふうてきそう)と命名されました。1937(昭和12)年に当時の総理大臣近衞文麿に譲渡され、敷地の一部が荻窪の外にあったので、元老西園寺公望が「荻外荘」と名付けたといわれます。「荻窪会談」等重要な会議が行われました。2016(平成28)年に国の史跡に指定されました。

明治期の地図の真ん中あたり、小さく黒くなっている場所が荻外荘公園と思われます。かつては池がありました。

あげ堀は立派な道路に。

角川庭園・幻戯山房。俳人で角川書店の創設者である故角川源義(げんよし)氏が、1955(昭和30)年に建てた自邸と庭園です。加倉井昭夫の設計による近代数寄屋造りの旧居は国の登録有形文化財です。

大田黒公園。善福寺川支流が流れる高野ヶ谷戸にある公園です。音楽評論家であった大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備して1981(昭和56)年に開園しました。1933(昭和8)年に建築された記念館は、当時としては珍しい西洋風の建築物で、室内には氏が愛用していたピアノや蓄音機などが残されています。

西郊ロッヂング・旅館西郊。1931(昭和6)年に全室洋間の高級下宿として、西郊ロッヂングの本館を開業し、1938(昭和13)年には新館を増築しました。1948(昭和23)年に本館を旅館・西郊に転業し、2001(平成13)年には、新館が改築されて賃貸アパートとなりました。本館・新館とも国の登録有形文化財です。

明治天皇荻窪御小休所で解散、次回の新潮講座は3月17日(日)に荻窪北篇です。井荻駅から荻窪駅まで歩きます。

2019年2月23日土曜日

用賀から桜上水へ ~住宅街に隠れた地形の「何か」を確認しに行く【Part2】

2月9日(土)の「用賀から桜上水へ~住宅街に隠れた地形の「何か」を確認しに行く」の報告Part2は、千歳船橋から桜上水までです。


今回の隠れたテーマのひとつは、"武蔵野台地の荏原台西端から淀橋台の西端に行く"。午後は荏原台の西端からスタート。カシミール地図を見ると台地に三つの谷があるのがわかります。環八通りは左端の谷を通っています。


環八通り沿いの桜丘すみれば自然庭園から歩道橋を渡ります。右側に見えるのは隈研吾のデザインによるマツダの東京拠点だったM2(現在は斎場)。


荏原台西端への坂。


荏原台西端の丘に到着。東京都水道局大蔵給水所付近が標高約54mで23区内でも標高の高い所のひとつです。


大蔵給水所は、昭和初期に完成したかつての日本水道東山野給水場でした。狛江浄水場から駒沢地域に給水され、1932(昭和7)年頃から成城町にも供給されるようになりました。


荏原台を北に下って小田急線をくぐると笠森公園があります。公園の横には荒玉水道道路(写真左)と谷戸川(写真右の暗渠)が。


環八通りから船橋の町に入ります。


明治期の地図。左上から斜めに流れているのが品川用水、現在の千歳通りです。品川用水は玉川上水の分水で、現在の武蔵野市から取水されて品川区まで引水されました。


品川用水を越えて烏山川支流の暗渠に。かつて船橋には七つの湧水があって烏山川に流れていたそうです。


暗渠を辿っていくと船橋観音堂に。観音堂前の道は鎌倉道と伝えられています。

能勢公園から船橋の小径に。都立千歳丘高校の敷地(かつては上智大学のグラウンド)を流れていた烏山川支流が暗渠となり、学校敷地の周りに付け替えられました(写真は下見時)。

荒玉水道道路と烏山川緑道。船橋の名前の由来は、かつてこの地が湿地帯で船の橋を架けたことに由来するそうです(写真は下見時)。

明治期の地図。鎌倉道が烏山川の谷筋を越えていきます。

烏山川の谷筋から台地に。北沢用水上堀から分かれた江下山堀です。住宅地にのどかな雰囲気が残っています。

近くには開渠の水車堀があります。北沢用水上堀は上北沢自動車学校付近で江下山堀と水車堀に分かれていました。左手は密蔵院です。詳しくは本田創さんのこちらのブログを。https://tokyoriver.exblog.jp/16828988/

北沢川の暗渠。谷筋には自然河川の北沢川が、台地上には開削された北沢用水が並行するように流れていました。

日本大学文理学部の陸上競技場(写真は下見時)。

いよいよ今回の目的地である淀橋台の西端に近づいてきました。

淀橋台の台地への坂道。右手の桜上水ガーデンズは三井牧場の跡地にあります。世田谷は大正末頃から養豚や酪農が盛んになりました。都市部の急激な都市化と関東大震災による畜産業の郊外化によるものです。三井牧場は1918(大正7)年に、三井合名会社が三井家の自家用牛乳を製造していました。

桜上水駅近くの電柱にその痕跡がありました。

精励会の敷地と道路との間の崖。

桜上水5丁目マップという案内板をあちこちに見かけます。

南北の道には坂、東西は道という名前になっています。

花火坂の案内板。二子玉川や川崎の花火がよく見えることが由来とのこと。この付近が淀橋台の西端、標高は約49mです。

タッピング坂。昭和15年から昭和32年頃まで近くに洋館があり、通訳や翻訳の仕事をしていたヘレン・タッピング氏が住んでいたことが由来です。

荒玉水道道路。淀橋台の台地から北沢川の谷筋の高低差がよくわかります。また雪が降ってきました。桜上水駅で解散、下高井戸駅近くで懇親会を開催しました。

次回は、3月9日(土)に町田市鶴川に行きます。