2018年11月17日土曜日

新潮講座 多摩モノレール・武蔵野台地篇

11月10日(土)の新潮講座は、多摩モノレールシリーズの3回目、立川を歩きました。

多摩モノレール立川南駅をスタート、立川崖線と青柳崖線を下って立川駅に戻るというコースです。

明治39年測図。一面の桑畑の中に集落がある場所は現在の立川駅より南、奥多摩街道の方です。第二中学校とあるのは、1901年(明治34)に東京府で2番目に創立された多摩地域最初の旧制中学校、現在の立川高校です。甲州街道はまだ橋が架かってなく、日野の渡しを利用していました。

大正10年測図。見にくいですが、左上に残堀川が立川崖線を流れ落ちています。残堀川はもともと立川断層に沿って流れていましたが、玉川上水の開削により助水のため利用されました。しかし明治期になり川の汚れにより切り離され、根川に合流することになりました。

昭和5年二部。昭和初期に立川駅南側で区画整理事業が始まりました。また1926(大正15)日野橋が完成しました。

昭和41年改測。新奥多摩街道が開通しています。

昭和51年二改。根川は残堀川が付け替えられため、大雨のたびに氾濫してしまいました。そのため残堀川は1972年(昭和47)に多摩川に合流するように流路変更され、根川は切り離されました。そして下水再生水が流れる根川緑道として整備されました。

多摩モノレール立川南駅をスタートします。

しばらくすると諏訪通り。昔ながらの商店街があります。

諏訪神社。811年(弘仁2)に信州諏訪大社を勧請し創建したといわれます。お諏訪様と呼ばれ、8月下旬には獅子舞や奉納相撲が行われます。市内最古の木造建築物でしたが、1994年(平成6)に火災により焼失。現在の社殿は2000年(平成12)に再建されました。

参道は静寂な空気に包まれています。

参道の横には柴崎分水の碑が、ひっそりとあります。

柴崎分水は、1737年(元文2)に玉川上水の松中橋付近から開削され、柴崎村と芋窪新田の飲用水や農業用水として使われました。柴崎では開渠の区間が多く、通年で多摩川の水が流れています。

柴崎分水は中央線を渡っています。最近改修された管の中を水が流れています。

改修前の2016年(平成28)1月の写真。当時の懸樋は蓋がなく、水の流れを見ることができました。

普済寺の西側、立川崖線と青柳崖線が落ち合う付近のビューポイント。

標高差約15mの崖下を残堀川が流れています。春は桜がきれいです。

普済寺。1353年(文和2)に、中世の武蔵七党の西党の一族である立川氏が菩提寺として創建したと伝えられています。寺内には1361年(延文6)に建てられた国宝の六面石幢があります。また立川氏の居館跡ともいわれ、その土塁が残されています(写真)

柴崎分水は普済寺の中を流れ、さらに柴崎の集落を流れていきます。

沢の稲荷。農耕の神として沢の集落で信仰されていたとのことです。塚の形から古墳ではないかともいわれています。

青柳崖線を下ります。

柴崎分水も青柳崖線を流れ落ちます。

多摩モノレール柴崎体育館駅を超えて立川公園に。写真の崖は青柳崖線。柴崎分水はこの公園の中を流れています。

根川緑道に整備された通称、カワセミ池。この日はカワセミの姿を見ることはできませんでした。

葦見トンネルをくぐると、いくつか排水口があります。柴崎分水の流末は写真の丸い管とのことです。

ここから立川崖線を上り、立川駅に戻ります。

第七小の北側は、国立市内を流れている矢川のかつての源流にあたり、暗渠が残っています。

立川高校の東側、区画整理された町並みの中に残る古い道を歩いて、立川駅にゴールしました。

次回は12月15日(土)、多摩モノレールシリーズ最終回は狭山丘陵篇、上北台駅からスタートします。

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