4月21日(土)の新潮講座・多摩武蔵野スリバチ地形散歩は、西武新宿線の西武柳沢駅から吉祥寺まで、武蔵野台地の標高50mライン沿いを歩きました。4月としては暑い日になりましたが、武蔵野の美しい新緑の中を気持ち良く歩くことができました。
カシミール3Dで茶色と緑色の境を標高55m、緑とグレーの境を50mに設定しました。武蔵関公園の富士見池は三宝寺池・善福寺池・井の頭池と同様に標高50mラインにあることがわかります。
スタートの西武柳沢駅は、2001年に旧田無市と旧保谷市が合併してできた西東京市にありますが、この周辺は旧保谷市でした。マンホールにその痕跡を見ることができます。
西武柳沢駅の近くにある千駄山住宅という名前のバス停。ここには山がありませんが、『多摩の歴史』(武蔵野郷土史刊行会・有峰書店)では「カヤやススキを六束ずつ馬の背中の両脇につけたものを一駄といい、ここは千駄というほど沢山とれたためと考えられる」と由来が書かれています。
石神井川に半島状に突き出した台地上に鎮座する東伏見稲荷神社。1929年(昭和4)に京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建されました。戦前には中島飛行機の研修所があり、亡くなった人の慰霊碑があります。
弥生橋から石神井川の眺め。川の水は綺麗で親水公園として整備されています。少し下流の護岸の下から水が湧き出しているのを確認できました。フェンスの先は早稲田大学東伏見グラウンド。ホッケー場やサッカー場、その先には馬場、アメフト場、野球場があります。
石神井川右岸の台地に広がる下野谷遺跡。縄文時代中期の環状集落の遺跡として南関東では大規模なもので、平成27年に西側の集落の一部が国の史跡に指定されました。水に恵まれた土地で暮らしやすかったのでしょうね。
武蔵関公園西側の道路は西東京市と練馬区の境界、つまり多摩地域と23区の境界です。旧保谷市は1907年(明治40)に北多摩郡に移管されるまでは埼玉県だったため、かつての都県境になります。
標高50mにある富士見池。かつては豊富な湧き水があり、調整池として整備される前は沼になっていたと考えられています。写真のメタセコイヤの木があるのは芦の島、池の北側には松の島があります。
富士見池の横を流れる石神井川。現在の富士見池は地下水と石神井川からの揚水、早稲田大学グラウンドからの湧水を導水しているとのことです。
武蔵関公園の南、青梅街道に標高58mと表示されていますが、この付近は23区内で標高が一番高い所です。
青梅街道を越えると練馬区から武蔵野市に入ります。境界沿いを流れているのが千川上水。玉川上水の分水で、江戸六上水のひとつです。1696年(元禄9)に開削され、湯島聖堂、寛永寺、小石川御殿、浅草寺などに給水されました。設計は河村瑞賢、工事は仙川村の徳兵衛・太兵衛が請け負いました。現在の水の流れは清流復活事業によるものです。
千川上水の近くにある野菜の直売所。「ブラタモリ・吉祥寺編」で放送された所ですね。新鮮な野菜がたくさん販売されてました。
武蔵野市には戦前、軍需工場が数多く建設されましたが、戦争記憶として案内板が設置されている所があります。写真の武蔵野市陸上競技場はそのひとつです。ここはかつて戦闘機のエンジンを製造していた中島飛行機武蔵製作所の運動場跡です。土盛りされたスタンドには防空壕や高射砲があったそうです。その他、中島飛行機の跡地は武蔵野市役所、住宅団地、武蔵野中央公園になりました。
武蔵野台地には人工ではない自然の窪地がよくあります。明治39年測図で〇に→が入っている場所が窪地サインです。武蔵野市にもいくつかの窪地があり、かつては大雨が降ると何日も水が溜まって大変だったそうです。
市立中央図書館の近くにある窪地。
この付近は江戸時代の新田開発の痕跡が色濃く残っています。明暦の大火後に現在の水道橋にあった吉祥寺の門前の人々などに、五日市街道に沿って間口20間・奥行600間ほどのの敷地が与えられました。1間は1.8mなので奥行は1キロに及びます。広い土地ですが、当時は幕府の萱場で人も住んでいないため、開墾には相当の苦労があったそうです。区画整理された痕跡は現在でも短冊型の区画として吉祥寺の町を印象づけています。写真は「ブラタモリ・吉祥寺編」でタモリさんと近江アナが歩いた扶桑通りの長く真っすぐな道です。
成蹊大学のけやき並木。成蹊学園が1924年(大正13)に池袋から吉祥寺に移転した際に植樹されたものです。成蹊学園が吉祥寺に広大なキャンパスがあるのは、三菱財閥4代目の岩崎小弥太の尽力によるものです。小弥太は現在の成蹊高・中がある場所に岩崎農園や清風荘という別荘を所有していました。そして隣接した土地8万坪を購入して学園に寄贈したとのことです。
吉祥寺の繁華街に近くなってきました。ここは四軒寺という交差点です。
吉祥寺に吉祥寺という寺院がないように、四軒寺という名前の寺院はありません。吉祥寺村が開村されたときに移転または創建された四軒の寺院(安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺)のことを言います。写真の安養寺には江戸時代の梵鐘と庚申塔が残されています。
明治時代の迅速測図でログを表示するとこんな感じです。吉祥寺の集落が五日市街道沿いに集まっていて、成蹊学園や住宅地が畑の中にあることがわかります。
次回の新潮講座は、標高50mラインを久我山から吉祥寺に歩きます。神田川と玉川上水、かいぼりの終わった井の頭池などを廻りますので是非お越しください!
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