いつものようにログです。久我山駅から井の頭公園まで約7kmでした。緑とグレーの境が標高50m、ベージュと緑の境が標高55mです。
明治期の地図を見ると集落は現在の人見街道や連雀通り、または五日市街道沿いにあることがわかります。短冊状の地割は江戸時代に新田開発された地域で、現在の区画は当時にその骨格が作られたことがわかります。
スタートの井の頭線久我山駅を西方向に行くと神田川沿いに暗渠がずっと続きます。
昭和20年の航空写真を見ると、神田川沿いに田んぼが続いています。
神田川の谷を見下ろすように小高い台地の上に久我山村の鎮守、久我山稲荷神社があります。
神田川の右岸(写真左)は三鷹市、左岸(写真右)は杉並区。三鷹市側の旧流路を少し歩くことができます。
杉並区の暗渠ではお馴染みの、金太郎の車止めがありました。状態はいいですね。
三鷹市と杉並区の境界です。
野性味のある階段がありました。
神田川から玉川上水に向かいます。これは旧牟礼橋。どんどん橋とも言います。昔の玉川上水は水量が豊富で、音をたてて流れることに由来すると言われます。橋の下部はレンガ造りです。後方は工事が進んでいる東八道路。
玉川上水を溯った所に架かっている東橋からの眺め。結構深いです。玉川上水は右岸(写真左)の小高くなった丘の北側に沿って流れています。
この風景には足が止まりますね。
牟礼にあるこの小高い丘は牟礼残丘と呼ばれ、かつて多摩川がこのあたりを流れていた時代に削り残されたものです。高番山とも呼ばれたのどかな風景が気持ちいいです。
昭和20年の航空写真。牟礼残丘は流線形の形が特徴的です。丘の北縁を北西から南東にかけて流れているのが玉川上水、丘の南側は牟礼田んぼです。玉川上水はこの付近で羽村堰から28~30キロの地点です。地形の勾配を巧みに利用して開削された玉川上水、江戸時代の土木技術に感嘆します。
牟礼残丘の標高約60mの高台にある牟礼神明社。小田原北条氏の家臣である北条種継(牟礼の高橋氏の祖先)が1537年(天文6)、扇谷上杉家の家臣が拠る難波田弾正の深大寺城に対峙する砦として築かれました。当時はさぞかし武蔵野台地の原野を一望できたでしょうね。
玉川上水に架かる宮下橋。三鷹台駅前通りを下っていくと神田川が流れています。人工の用水は高い所を流れ、自然の河川は低い所を流れていることを実感できます。
道路を下って脇に入っていくと神田川支流の暗渠があります。
このあたりは神田川支流の暗渠が複雑になっています。
また玉川上水に戻ります。ここは新橋の近くです。
玉川上水から井の頭公園西園に入ります。未舗装の道がありますが牟礼用水(牟礼分水)の跡です。
牟礼用水の取水口。牟礼用水は三鷹台団地の辺りにかつてあった牟礼田んぼ(先ほどの航空写真)に水を供給する目的で、1745年(延亨2)に玉川上水から分水されました。
井の頭弁財天に向かいます。参道入口にある標石は「神田御上水源井頭辨財天」と彫られています。井の頭弁財天は神田上水の水神であり、また弁財天は音楽や芸能の守護神ということもあり、江戸町人に信仰されました。また景勝地として江戸からの行楽として人気がありました。
現在では、井の頭公園や井の頭弁財天へ行くには、中央線の吉祥寺駅南口から行きますが、江戸時代から大正時代にかけては弁財天の参道から行きました。参道は大いに賑わっていたそうです。
現在の参道の周囲は閑静な住宅街。
弁財天の石段の上に石灯籠がいくつかあります。奉納した江戸商人などの名前が彫られています。
井の頭弁財天。縁起では関東源氏の祖である源経基の創建で、源頼朝や新田義貞が戦勝祈願をしたとされています。最近は外国人の姿も多く見かけます。
標高50mラインを代表するスリバチ状の地形の井の頭池。かいぼりが終わって池の水はきれいでした。かいぼりは外来種の駆除や水質浄化のために平成25年度から2年おきに実施しています。
平成29年度のかいぼりの様子です。水が抜かれて池底が見えていますが、池の真ん中に水の流れがあります。これは湧水の流れです。井の頭池の湧水は涸れてしまったと言われていましたが、かいぼりにより湧水が健在であることがわかりました。
かいぼり期間中に開催される池底ツアーなどのイベントで池底に降りることができます。池底の武蔵野礫層から水が湧いているのを間近に見ることができますよ。
次回の新潮講座は6月16日(土)に、千歳烏山から久我山にかけての標高50mラインを歩きます。
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